首里城 ( しゅりじょう) から 沖縄県立博物館


 5  沖縄県立博物館の新館+沖縄県立美術館の誕生


那覇市首里大中町1丁目1番地 tel.098-884-2243
http://w1.nirai.ne.jp/oki-muse/index.html
http://www.pref.okinawa.jp/bunshin/con3/02nenpyo.html


玉陵からもう一度、守礼の門、園比屋武御嶽石門のほうに戻り、龍潭池(りゅたんいけ)、県立芸術大学を経て、沖縄県立博物館に行った。

豊かな文化をもつ沖縄を代表する博物館であり、歴史・民俗のほかに、美術・工芸、自然史部門まで含む総合博物館だから、たっぷりした見応えがあることを期待していったのだが、これっきり?というあっけないものだった。
沖縄県では、1990年代に県立美術館を新設する計画が進んでいたが、バブル崩壊で、300億円を超える施設の建設は、一時凍結された。
今世紀に入って、計画を見直して規模を縮小したうえで実現に向けて動き出し、2004年秋に建設工事が始まっている。
2007年の開館が楽しみだが、今のところ、博物館の中身より、博物館の歴史のほうがおもしろい。



1936 旧首里城北殿を利用し、沖縄縣教育會附設「郷土博物館」が設立され、約5千点の文化財が収蔵されていた。
沖縄縣教育會は1886年に沖縄県の教育支援を目的に創立された団体で、総裁に県知事、会長に県学務課長や師範学校長で、一私的な団体を超える性格をもっていたようだ。
1927年にレニングラード大学教授兼博物館長のシュミット博士が沖縄を訪れ、沖縄のような貴重な文化をもつ島々に、研究団体も博物館もないのは遺憾なことで、設立が急務であると訴え、それに刺激されて、「郷土博物館」が生まれた。


1944 10月に空襲を受け、本土疎開を検討したがかなわず、首里城内の洞窟に避難させた。
1945 首里城が砲撃・爆撃を受け、資料は壊滅
終戦直後の8月、米国海軍軍政府は残欠文化財を収集し、石川市東恩納に「沖縄陳列館」を設立した。
この設立を実行したハンナ少佐は、1945年から1946年まで、米国海軍軍政府教育部長だった軍人。東洋史を専攻した人で、文化財が破壊されたことを惜しみ、自分でジープを走らせて残った文化財(の多くは破片になっている)を収集した。「郷土博物館」もそうだったように、沖縄の博物館の誕生には、外国人の関わりが大きかったことになる。
陳列館は個人の住宅内に置かれた。


1946 「沖縄陳列館」は沖縄民政府に移管され、「沖縄民政府立東恩納博物館」になる。
別に、沖縄県民有志が首里城周辺の廃墟の中から残欠文化財を収集し、首里の汀良に「首里市立郷土博物館」を設立した。
1947 「首里市立郷土博物館」も沖縄民政府に移管され「沖縄民政府立首里博物館」に改称。
1953 「沖縄民政府立東恩納博物館」は「沖縄民政府立首里博物館」と合併し、首里に移転。「沖縄民政府立首里博物館」と称する。首里当蔵の龍潭池畔に瓦葺の本館完成。(米民政府によりペルリー来琉百周年記念事業の一環としてペルリ記念館同博物館に附設して落成、贈呈される。)
1955 「首里博物館」の名称を「琉球政府立博物館」に改称。
この頃に文化財収集運動が行われた。寄付金などを財源に、東京や京都を中心に、全国から沖縄の文化財を集めた。
1965 大中町の旧尚家屋敷跡を購入。琉球処分で城を追い出された尚泰王が移り住んでいた邸の跡地で、現博物館の敷地になる。
1966 s41 米国の援助により現在の地に鉄筋コンクリート建の新館を建設し、移転。11月に開館。
1972 2月、サントリー美術館との共催で、「50年前の沖縄」写真展を開催。   5月、日本復帰に伴い「沖縄県立博物館」に改称。
1971 大嶺薫(1907-1975)美術館を開館(-1985)
1973 国庫補助により2階部を増築し、展示室を3室増設。
1981 1981 s56 (平和祈念堂美術館開館)
1982 自然史部門が加わる
1986 大嶺薫美術コレクションが加わる

1990 (浦添市美術館開館 読谷村立美術館開館)
沖縄県立博物館新館建設検討委員会設置
「沖縄県立博物館基本構想」報告
1991 沖縄県立博物館新館建設委員会設置
1993 「沖縄県立博物館新館建設基本計画」報告
沖縄県立美術館基本構想検討委員会(会長:大城立裕)設置
会長の名前を見てようやく思い出したのだが、このころ僕がいた埼玉県立近代美術館に、検討委員会のメンバーが視察に来られたことがあった。
そのときの名刺を探し出してみると、大城立裕氏のほかには、コンピュータのシステム開発などをしているらしい会社の社長、琉球大学教授、沖縄県観光文化局文化振興課職員の4人だった。
「博物館」に行くことだけが頭にあって、「美術館」のことに結びついていなかった。


1994 県内初の私立美術館「佐喜眞美術館」、宜野湾市に開館

「県立美術館基本構想」を報告
「沖縄県立美術館基本構想」の策定(観光文化局)
沖縄県立現代美術館建設検討委員会(会長:大嶺實清)設置

「沖縄県立博物館新館建設基本計画」教育委員会が策定
沖縄県立博物館新館展示委員会設置、「同基本計画」報告

このころ、博物館と美術館をあわせて那覇新都心に設立する計画が浮上。
31,300uの敷地に、2つの施設をエントランスホールで結び、「アジア地域や沖縄の発展に貢献する活力みなぎる国際時代の一大拠点」にする構想となった。総事業費は建設費が370から380億円、用地取得費が80億円、合計450〜460億円。開館後の運営費は年間10億円と見込まれた。


1995 「沖縄県立現代美術館(仮称)基本計画」を報告
沖縄県立現代美術館(仮称)基本計画策定

「沖縄県立博物館新館展示基本計画」教育委員会が策定
博物館+美術館の公開設計競技(審査委員会会長:近江栄・日大名誉教授
1996 公開設計競技の結果発表
=(株)石本建築事務所・(有)二基建築設計室JVに建築の基本設計を委託
(株)トータルメディア開発研究所に展示の実施設計を委託
石本・二基案は、地下1階、地上3階の美術館と博物館を並行させる。2つの建物のあいだの庭がエントランスホールとなり、ヤシの木をモチーフにした屋根がかけられ、木漏れ日のさす空間になる。周囲には、グスクを連想させる琉球石灰岩の石垣をめぐらす。
審査委員会は、決定作について、「石文化の土着的感覚とエントランスホールの都市感覚の対比が新鮮」と評価した。
一方で「ヤシをモチーフにした空間は外国にも似たものがある。屋根面ステンレスの塩害や、複合施設の問題」などを指摘し、実施設計の段階での課題とされた。

1997 基本設計完了
次年度予算に実施設計費の計上見送り
1998 次年度予算に実施設計費、用地購入費見送り
バブル崩壊で実現の見通しが立たなくなる。
浦添市美術館(1990年開館)が、建設費、用地取得費合わせて20億円、年間の運営費が1億5000万円程度で、県立館は、想定された規模が違うとはいえ、過大な計画だったようだ。

2002 再選された稲嶺恵一知事が公約を具体化する形で基本設計の変更を表明、議会の承認をえた。
(株)石本建築事務所・(有)二基建築設計室JVに建築の基本設計見直しを委託
外観は沖縄らしくグスクをイメージし、地上4階、地下1階、博物館と美術館を1棟におさめ、延べ床面積は約23,600u。
地下駐車場や、高級な資材を変更するなどし、全体的に規模が縮小された。
太陽光発電装置で節電し、雨水を利用してトイレ洗浄水や水まきをするなど、環境にも配慮した。
博物館の常設展示は「海と島に生きる」がテーマで、歴史を中心に自然、民俗史料約8万点を収蔵する。
美術館は県にゆかりの画家のほか、アジアの作品を集める方針。
2003 2003 h15 (株)石本建築事務所・(有)二基建築設計室JVに建築の実施設計を委託
(株)トータルメディア開発研究所に展示の実施設計を委託
2004 建築工事着工
2007 開館予定



参考:
沖縄県立博物館紀要第23号(1997年) 萩尾俊章・多良間利絵子「沖縄県立博物館草創期に関するノート」
同第24号(1998年) 外間正幸・萩尾俊章「沖縄県立博物館草創期における文化財収集とその背景」
同第28号(2002年) 園原謙「沖縄縣教育曾附設郷土博物館について」
沖縄県立博物館総合案内 大城立裕ほか編 沖縄県立博物館 1987
「沖縄県立博物館50年の歩み」図録 沖縄県立博物館 1996
沖縄タイムス 1996.06.15「県立美術館コンペ作品決まる」 
琉球新報 1998.03.11 (水)「美術館計画の見直しを」
琉球新報 2004.07.16 (金)社説「美術館着工へ・文化立県の発信拠点に」



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