ポンポン山から遠山記念館



 2−1  遠山記念館 − 邸宅 (川島町/室岡惣七設計)


埼玉県比企郡川島町大字白井沼675
JR高崎線・桶川駅or西武新宿線・本川越駅から
川越駅〜桶川駅間のバスで牛ヶ谷戸(うしがやと)下車、徒歩15分
10:00−16:30
休館:月曜日(祝祭日の場合は開館、翌日休館)
    展示替期間 年末・年始(12/21-1/10)
tel.049−297−0007
http://www.e-kinenkan.com/

*ポンポン山から遠山記念館へは、
  ポンポン山→東松山駅→東上線川越駅から桶川行きバス
  or 車で約20



邸宅と美術館がある。
邸宅と美術品の保存・公開のために、1970年に財団法人遠山記念館として開館した。

■ 邸宅

川島町出身である日興證券の創立者・遠山元一(1890−1972)が、苦労して育ててくれた母・美以(1866−1948)の住まいとするために建てたもの。
約3,000坪の敷地に、渡り廊下でつながる東棟、中棟、西棟からなる邸宅が作られ、美以没後は、主として遠山元一の接客に使用されていた。
現在は、中心の邸宅(3棟)のほか、土蔵、長屋門、庭門、裏門、茶室本席、茶室寄付待合、茶室腰掛待合、茶室雪隠、外塀、内塀までが登録有形文化財で、美術館とともに公開されている。

設計監督は東京帝大出身の建築家、室岡惣七、大工棟梁は中村清次郎
関東の豪農の屋敷を思わせる東棟、書院造りの中棟、母の暮らしの場である京間の数寄屋造りの西棟からなる。
庭園内に裏千家亀山宗月設計の茶室2棟があり、和風の庭に流政之(1923−)の彫刻が違和感なく置かれている。

1933年から2年8月かけて、1936年4月25日に竣工した。
この数字を見ると、よくこれだけの住宅を建てられたものだと感じ入ってしまう。
1933年といえば、1923年に起きた関東大震災から10年経過している。これより前、壊れた首都の復興期にあっては、

職人は延35,000人、間接的には関係者の数は10万人にものぼったと伝えられる
(友部直「遠山邸−緑のなかの重厚と典雅」 「和風建築の粋 遠山邸」1995所収)


ような大工事は不可能だったのではないかと思われる。

また、1933年は、満州事件の年。ドイツではナチス政権が誕生し、迫害を逃れて建築家ブルーノ・タウト(1880−1938)が日本に着いたのもこの年であった。(竣工の年の1936年に日本を離れ、トルコに向かった。)
竣工の直前の2月26日には、226事件が起きている。
軍国主義の傾向が強まり、世の中が窮屈になっていく。
軍需優先のため、やがて公共建築でさえ、鉄やコンクリートの使用が制限されていくが、この家は木を主体とする住宅であるとはいえ、そして経済の発展に大きな貢献をした人が、母のために作る住まいであるとはいえ、もう少し時期を遅らせたら、こういう大きくて、全国から銘木を集めるような建築を作れなかったのではないかと思われる。

この邸宅を作るための材への熱意はたいへんなもので、藤森照信は、ほとんどやり過ぎではないかというニュアンスもまじえて、こう書いている。

埼玉の遠山家(音楽評論の遠山一行さんの実家)のムクの桐のドアーは畳一枚分。中に畳が何枚も入っているような桐の木なんていったいどんな姿で立っていたんだろうか。本当に鳳凰が巣をかけていたんじゃあるまいか。
(藤森照信「天下無双の建築学入門」 筑摩新書 2001)


また、着工の年、母は67歳だった。亡くなるまでその後13年暮らしたが、時期を遅らせたら母のための邸宅は(少なくとも今あるような姿では)完成しなかったろう。


美術館側からは大きな家には見えないのに、中に入ってみると、先へ先へと部屋が続いていく。選ばれた上質の材と高い技術によって作られた建築には、70年近く経った今でも狂いが見られない。








中棟






西棟

西棟の、庭に面した明るい廊下には瓦が使われいる。沈んだ渋い色合いのが、やはり狂いなくきっちりと敷き込まれ、鈍く光を反射していて、その上を歩くと、木とはまた違った感触が足に伝わってくる。

照明器具を見るのも楽しい。部屋にあわせて、いく種類かのデザインで作り分けてある。
 


この格調高い、立派な邸宅の中で、おやっという感じで印象に残るのが、中棟の小さな化粧の間。庭に面してもいない、ふつうは来客が行くはずもない内輪の部屋だが、ひっそりとして、愛らしい。
衣類をかける棒が壁にめぐらしてあるが、棒を支えるのは、曲がった、細い、皮がついたままの枝で、遊び心が感じられる。

その時代としての近代的機能を備えながら、3様の和風の様式をうまくつないで、落ち着いた風情で関東平野の田園地帯に存在している。
広く材と技術を集め、しっかりとその時代の記録をとどめているという点で、この建築自体が、確かな価値ある博物館になっている。
 



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