弥山・出雲大社から手銭記念館・松江北堀美術館
+菊竹清訓・高松伸その他の島根のミュージアム



 2  出雲大社+出雲大社庁の舎(ちょうのや)


■ 出雲大社 

大社町杵築東
http://www.izumooyashiro.or.jp/


背が高いので有名な神社。
現在のものは1744年建築で、高さ24メートル。
かつては、東大寺の大仏殿15丈をこえる16丈(約48メ−トル)あったといわれ、江戸時代の国学者・本居宣長が書物『玉勝間』で引用もしている金輪造営図(かなわのぞうえいず)が証拠の1つとされた。
あまりに高すぎて、何度も倒壊したとも記録にあるらしい。

本当にそんなに高かったか、否定的意見もあったが、2000年に、平安時代後期(11−13世紀ころ)の本殿を支えた柱の根元部分が出土して、実在説が有力になった。丸太3本を束ねて直径は3メートルになる。金輪造営図というとおり、鉄で束ねていたと考えられる。

ハインリヒ・シュリーマンの話を思い出す。小さなころ、父からきいたギリシアの詩人ホメロスの「イリアス」という詩にひかれ、生涯をかけて挑戦してトロイの遺跡を発掘した。
想像の世界のことと思われていたことが、現実の廃墟となって現れる。













拝殿の注連縄(しめなわ)は重さ1.5t

発掘跡は埋め戻されているが、そのとおりの位置、そのとおりの大きさで参道の舗石に印されていて、かつての大きさを想像させる。
これも金輪造営図によれば、中央にある磐根(いわね)の御柱(みはしら)は、周囲の柱より太く、直径3.6m。この柱1本だけに「四畳半が1部屋入ってしまう大きさ」と、大林組で、出雲大社の復元に参加した林章はわかりやすいたとえで説明している。
(『古代出雲の文化−銅剣・銅鐸と巨大建造物』上田正昭+島根県古代文化センター編 朝日新聞社 1998 に収録されたシンポジウムにおける発言)

背の高い神社には、塀がまわりを囲んでいて、近づけない。
直下で見上げられないので、それほど高い感じがしない。遠くから「すごい!高い!」という驚きを期待してきたのに、やや拍子抜けの気分になる。
塀ごしに桧皮葺の屋根が見え、千木(ちぎ)と3本の勝男木(かつおぎ)が空を背景にみごとな造形をみせている。
斜めに交叉して空を突き上げる千木の長さは7.8m。おとなが4人並ぶよりまだ長い−と、頭で補ってみると、やはりふつうでない大きさだとわかる。

本殿のうしろには、丸くこんもりとした八雲山が控えている。

上記のシンポジウムで、國學院大學の関和彦の考え方がおもしろいものだった。
出雲大社の階段の下を浜床(はまゆか)という。これは海のこと。
かつて109m(引橋長1町)もあったという長い階段は川。
社殿は山。
つまり、山、川、海という自然世界そのものを建造物として具現したのが出雲大社だという。






■ 出雲大社庁の舎(ちょうのや)・神こ殿

出雲大社の境内に菊竹清訓(きくたけきよのり)設計の建築が2つある。
参道から本殿に向かって、左手前の位置に庁の舎(ちょうのや 1963年)。右手前の位置に神こ殿(1981年 こは、しめすへんに古い)。

庁の舎は、菊竹が注目を浴びるきっかけとなった建築として、年譜などに必ずでてくるのだが、「庁の舎」って何だろうと思っていた。白装束の神官さんが出入りしたりして、ふつうには社務所というところらしい。

かわった形は、出雲地方独特の刈り取った稲束を架ける「はでば」をモチーフにしているという。それを鉄筋コンクリートで造る。
相当に異様な形の建築だが、境内にあって、とくに違和感がないのは、そのモチーフの選択によるのかもしれない。
横桟の間は透明なガラス。ちょっとのぞいてみると応接室がある。
菊竹の建築は、外観は大胆で異様なのに、内側は蜜のようにトロっと甘く、その意外性に驚かされることがあるが、ここもそんな印象を受けた。

神こ殿は、一階に祈祷受付所、参拝者休憩所、二階に宝物殿。
これは庁の舎以上に目立たない。












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