京路戸峠から佐野市立吉澤記念美術館で若冲を見る/
ライシャワーとアントニン・レーモンドと松方家の人々



 3-2  ハル・松方・ライシャワーと松方幸次郎/国立西洋美術館


・ ハルの祖父は首相もつとめた松方正義。
・ その三男、幸次郎がフランスで収集した美術作品をもとに、ル・コルビュジェ設計による国立西洋美術館が開館した。
・ 国立西洋美術館  http://www.nmwa.go.jp/index-j.html
・ 川崎重工 http://www.khi.co.jp/sharyo/


ライシャワー夫人ハル・松方・ライシャワーの父方の祖父は松方正義で、蔵相として財政制度の確立に貢献し、首相も2期つとめた人。
その三男、松方幸次郎(1865-1950)は、アメリカ、フランスの留学から帰国後、父正義が総理大臣となり、父の秘書官として政界入りした。
松方内閣が1年余りで倒れると幸次郎も辞職し、川崎正蔵に見込まれて造船業に入り、川崎造船、神戸新聞、川崎車輌など多くの企業の創立、発展を導いた。

川崎造船の商用でロンドンに滞在中、画廊で大きな赤いクレーンを描いた造船所風景の油絵があるのを見て、心ひかれるままに買い求めたのがコレクションのはじめ。
幸次郎は一般の人の鑑賞のため、若い芸術家のため、絵画を買い集め、東京に美術館を建てる構想を考え、クレーンを描いた画家、サー・フランク・ブラングィンも賛同して、ブラングィン設計による「共楽美術館」という名の美術館をつくる構想を持っていた。

松方幸次郎はすさまじい勢いで作品を買い集め、黒木三次夫妻(次項参照)の紹介でモネ邸を訪れ、モネ作品も購入している。
戦争で彫刻に使う銅を手に入れられなくなっていたロダンとは、幸次郎が材料を提供し、ロダンが作品を譲る約束をし、「地獄の門」など、数点を所有することとなった。
パリで知り合っていた黒田清輝は驚き、

こんな大きなものをどうやって日本に運ぶのだ、と尋ねたところ、造船所のクレーンを輸送することを考えれば、こんなの雑作もない、という答が返ってきた。
絹と武士 ハル・松方・ライシャワー著 広中和歌子訳 文芸春秋 1987

幸次郎は日本のために購入したのに、日本政府は美術品の輸入に対して十割の奢侈関税をかける措置を始めた。また、ロダンの彫刻のいくつかが猥褻であるとして輸入禁止になっている。幸次郎が怒って日本には持ち帰らないといっているうちに第二次大戦が始まり、まだ日本に送らずにあった作品は敵国資産としてフランス政府に差し押さえられてしまった。
戦後、作品の返還運動が起きたとき、フランス側にあって返還するよう主張した1人が、中国・日本美術の権威、ヴァディム・エリセーエフであった。

ヴァディムの父セルゲイ・エリセーエフは、ロシアの商家の出で、東京帝国大学に学んだ。ロシア革命の時フランスに亡命してソルボンヌ大学教授になり、1932年ハーバード大学に移って日本学を創設し、ライシャワーの師となった。ライシャワーが博士論文に円仁を選んだことを推し、また外遊ののちハーバードで教えることを提案した人である。

日仏間の協議で、フランスから返還した作品を収蔵・展示する美術館を日本政府が用意するという条件で返還が実現し、ル・コルビュジェ設計の国立西洋美術館が1958年に開館した。
幸次郎は、「共楽美術館」の構想が実現しないうちに、1950年に鎌倉で亡くなっている。

* この項はほとんど「絹と武士」 ハル・松方・ライシャワー著 広中和歌子訳 文芸春秋 1987 によりました。


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