カーレンベルク山からウィーンのミュージアムと建築

 オットー・ヴァグナー 郵便貯金局・教会から、地下鉄の駅・運河の水門まで 


アンカーハウス カールスプラッツ駅ヒーツィング駅貴賓用パビリオンマヨリカハウスウィーン郵便貯金局 アム・シュタインホーフ教会 (軍事史博物館) カイザーバート水門監視所


オットー・ヴァグナー (Otto Wagner 1841-1918)

19世紀にはオーストリアはハプスブルク王室が広大な領土をもち、ウィーンには多くの人材が集まり、世紀末には多彩な文化が実った。
オットー・ヴァグナーは、父がハンガリー王室の宮廷公証人。
ウィーンにでて、ウィーン工科大学、ウィーン造形芸術アカデミーで学ぶ。
1894年にはウィーン造形芸術アカデミー教授に就任。国の建築総監にも任命され、ウィーンの近代都市への改造を主導した。
地下鉄の駅をいくつも設計し、あわせて進行した運河の改造にあたって水門の監視所も設計した。
1895年、アンカー保険会社発注のビル、アンカーハウスが竣工した年には、『近代建築』を書いて歴史主義からの離別を主張した。
近代建築の後進を育て、駅など新しい都市のシンボルになる建築を設計した点で、日本でいえば辰野金吾(1854-1919)みたいな位置にあたるだろうか。
1897年にクリムトらが新しい芸術運動、分離派を結成すると、ヴァグナーも参加した。50代で、既成社会の中心にいる人物だから、むしろ反対側にたっても不思議でないくらいだが、その柔軟さに驚かされる。

本書が1895年に出版されたとき、そこに述べた私の確信は大部分の建築家の無理解と悪意に会い、私は多くの不当な、いや、愚劣な言葉を浴びせられた。私はあらゆる革新者と同様に、世間に向かって、君の理解は間違った根拠に基づいている、君は正しくないといえば必ず罰せられる、という経験をしなければならなかった。
 その時から3年も経たないうちに、私自身が考えていたよりも早く、私の言ったことの正しさが証明され、近代派はほとんどいたる所に勝者として進出した。敵は群れをなして投降し、その中の最良の戦士でさえ、彼らが近代派の攻撃に対して構えた折衷主義や「親しみやすさ」の盾が厚紙細工に過ぎないことを知って、動揺した。
 無数の芸術雑誌が戦場に現れ、どれも近代派に紙面を開け、行動と言葉によって近代派を讃えた。オーストリア造形芸術家協会「ゼセッシォン」の成功は、一般の人びともまたこの若い新鮮な流れに賛同したことを示す適切な証拠である。
(1898年9月『近代建築』第2版の序文から  『近代建築』 オットー・ヴァーグナー 樋口清・佐久間博訳 中央公論美術出版 1985) 

(ウィーンで見たヴァーグナーの建築を完成順に並べてみました)


■ アンカーハウス 1893-95
Ankerhaus (u1.3) Stephansplatz

グラーベン通りに面して立つ店舗・オフィス・住宅。
ウィーンに夕方着いて、ホテルに荷物を置き、ひとまわり中心市街を歩いてみようとシュテファン寺院に向かって、その前にここに行きあたった。
アンカーは施主の保険会社名。狭い通りをはさんで立つ2棟を結ぶ通路に時計があって、観光名所になっている。正午にウィーンの歴史的人物12人の人形が音楽にあわせて登場するというのだが、それは見損ねた。
屋上のペントハウスは写真スタジオとして設計されたが、フンデルトワッサー(1928-2000)がアトリエを構えて屋上庭園にしていた。


■ カールスプラッツ駅  1894/1897-98 
Stadtbahn Station Karlsplatz (U1.2.4)Karlsplatz

鉄骨を組み、大理石や石膏パネルで覆い、金色や緑色の平面的装飾を加えている。
今は3つの線が交差する基幹駅で、ヴァグナー設計の地上部分の駅舎はシンボルのように残されていて、一部はカフェになっている。

19世紀末に欧州の都市には地下鉄が作られていった。
ロンドン1863年、ブダペスト1896年、グラスゴー1897年、パリ1900年。(日本では1927年、上野-浅草間が最初。)
ウィーンでは、1853年のフランツ・ヨーゼフ皇帝暗殺未遂をきっかけに、都市をとりまく城壁を撤去する都市改造が始まった。このとき、旧市の市街を貫いて鉄道馬車が走る計画もあり、実現すれば世界初の地下鉄になるところだったが、当時の技術では作れず、実現しなかった。
1894年に工事が始まり、ヴァーグナーは政府の建築総監+ウィーン交通局の顧問建築家に任命された。
パリの地下鉄は各駅共通の標準設計があったが、ウィーンではヴァークナーが36駅をデザインして、今でも数駅が残っている。







■ ヒーツィング駅貴賓用パビリオン 1898
Stadtbahn Station Hofpavillion Hietzing (U4) Hietzing

シェーンブルン宮殿を皇室が訪れるときの専用駅舎として作られた。

シェーンブルン宮殿を見たあと、敷地内にある動物園-温室と回ってヒーツィング門から出て、ヒーツィング駅から市街に戻った。
写真は一般乗降口から貴賓用駅舎を眺めたところ。線路を挟む2つの長い弧が、プラットホームの屋根になる。
曜日・時間限定で公開しているらしいが、行ったときは閉まっていた。
(写真の右から先方にかけてシェーンブルン宮殿がある。この線路の先、次の駅がシェーンブルン駅。ここらから近いヒーツィング墓地にはクリムト、さらに少し西の墓地にはシーレの墓がある。行ってみたいとも思ったけれど、死後の墓より、ほかに生きているもので見たいものがたくさんあるので、墓参りは諦めた。)



■ マヨリカハウス 1898-99
ヴィーンツァイレWienzeileの集合住宅 通称マヨリカハウスMajolika haus (40番地)/メダイヨンハウスMedaillon Haus (38番地)
(U4) Kettenbruckengasse駅

Haus Des Meeresを見たあと、東に少し歩くと広い通りにでる。
Kettenbruckengasse 駅の広場があり、そこはナッシュマルクトの市場の南西の端でもある。

駅と市(いち)から通りを隔てた反対側には、ビルが並んでいる。
1つがマヨリカハウス。円柱、付柱、エンタブレチャー(臥梁)といった古典建築のでこぼこはなくて、マヨリカ・タイルで埋め尽くしている。
タイルの淡い色の模様はきれいなのだが、アドルフ・ロース(1870-1933) は入れ墨と批判した。



右隣がメダイヨンハウスで、最上階にコロマン・モーザー(1868-1918) 制作のメダイヨンがあり、女性の顔が装飾的に並んでいる。上部、両端に、叫ぶ女の像が置かれている。

オットー・ヴァグナーが自分の出資でたて、自分の住居以外の部分は販売して資金を回収したという。
絵画や彫刻などの芸術作品は、まず制作があって、それを売って収入がある。(もちろん買い手があったときだけだが)
一方、建築はまず施主=出資者がいなくては実現しない-ということになっているのだが、この方式なら先に作ることができる。建築家はどんどんそうすればいいのに-というわけにはいかないか。

オットー・ヴァグナーの有名な建築だが、同じ高さの建物が並んでいて、ほとんど目立たない。ちょっと拍子抜けだった。

ナッシュマルクトの市場は両側に小さな店が並んでいる。野菜、果物、肉、菓子などがあり、椅子をいくつか並べて食事をとれる店もある。
狭い通りを、さまざまな匂いをかぎながら歩いていくと、オットー・ヴァグナーも加わった分離派の展示施設、分離派館の前にでた。




■ ウィーン郵便貯金局 1904-06
Postsparkasse  (U1.4) Schwedenplatz

設計競技が実施され、36案のなかから選ばれた。
鉄筋コンクリートの構造物をさまざまな素材で覆っている。
外部の下層は、波打つ断面をもった花崗岩のパネル。上層は、大理石のパネル。最上部は、窓の列にあわせたセラミック・タイル。
ほかにアルミニウムを多用している。正面入口の柱、手摺り、壁面のボルトの頭、内部鉄骨の柱の下部、空調用吹出し口など。






ここの写真を見るたびに、広くとった中央の空間が不思議な光にみたされていることにひかれていた。
実際に立ってみると、ガラスブロックの床からおぼろな光がたちのぼり、ガラス天井からも光が降り、あちこちに使われているアルミニウムが独特な反射を返している。
明るさ、軽さ、(半)透明感、光への配慮。
正面入口のドアのほかには開口部はないのに、閉塞感などまるで感じられない。
両脇の奥まった位置に窓口が並んでいる。ちょっと影にはいっている。その上品さもいい。

ここもウィーンへの旅行の最大の目的の1つだった。
生きているうちに来られてよかった。



■ アム・シュタインホーフ教会 1905-07
Kirche am Steinhof 14区

シェーンブルン宮殿はウィーン中心市街の西にあるが、アム・シュタインホーフ教会はさらに西にある。
ミュージアム・クォータの近く、Dr.Karl-Renner-Ringから48Aのバスに乗る。バス停がどこかわからなかったのだが、屋根と、低いプラットホームのある市電の停留所に、市電のふりをした2両編成のバスが入ってくる。
30分以上乗って、Otto-Wagner-Spital,Psychiatrisches Zentrumで降りる。
郊外の住宅地で、高い建物がなく、ゆったりしている。

アム・シュタインホーフは精神病院内の教会。
正門を入ると、庭の向こうに、左右対称の、どっしり構えた病院本館がある。案内図によれば、その両側から本館の背後にのびる道をまっすぐ進んだ先に目指す教会がある。
木立の中を、ゆるい傾斜の坂道をあがっていく。
広い敷地に、道と病棟が、左右対称に、わずかの高低差で段々に上がりながら配置されている。
それぞれの病棟が、木々に囲まれ、草の庭をもつ。小道をリスが横切って走る。こういう環境なら入院してもいいかなと思う。



アム・シュタインホーフ教会は最上段中央にそびえるようにある。
金色に輝くドームが目に入った。竣工当時は金色で、その後の改修で緑色にされたと、案内書に緑色の写真が掲載されていた。初めの状態に復元した-というか、今、復元の真っ最中なのだった。近づいてみると、下のほうはすっかり囲われていて、工事中。まったく中には入れない!
まずい時期にきてしまった!
片道12時間もかかる飛行機に耐えてきたのに!
マッキントッシュのグラスゴー美術学校やグラス・ハウスを見に行く計画があって誘われたけれど、ふりきってこちらにしたのに!
時差ボケに弱いので睡眠薬まで用意してきたのに!
その他たくさんの、のに!



郵便貯金局と同様、ここも設計競技で選ばれた。
ペロポネソス半島のパトラスのギリシア正教会をモチーフにしたという。
写真で見ると、コロマン・モーザーがデザインしたステンド・グラスと祭壇も、建築空間にあっているというか、さらに生かしているようだった。
実際になかに入って、その広さと輝きにひたりたかった。
もう一度、出直してくる機会があるかどうか。

          ◇          ◇

この教会が完成して10年ほど、1918年にオットー・ヴァグナーは亡くなる。
この年はたいへんな年で、教会をともに作ったコロマン・モーザーも、分離派の仲間、グスタフ・クリムトも、エゴン・シーレも亡くなっている。いかにもひとつの時代の終わりを明瞭に示しているが、なにより、カール1世が退位してハプスブルク王朝が終わり、「ドイツ・オーストリア共和国」という小国が生まれた(あるいは小国になりさがった)年だ。
大ドイツに憧れるオーストリアは、それから15年後には、大ドイツを体現する(かにみえた)ヒトラーを、ウィーンに歓呼して迎える。
しかし弱い者にとっては悲劇の始まりであって、健康で強いアーリア人のみが生存し、ユダヤ人や、アーリア人のなかでも身体や精神を病む者は抹殺されるべきだというのがヒトラー(とそれを支えた社会)の思想であった。

ドイツのヴァイツゼッカー大統領は、1985年6月の「荒れ野の40年」と題する演説で、こう述べている。

第3帝国において精神病患者が殺害されたことを心に刻むなら、精神を病んでいる市民に暖かい目を注ぐことはわれわれ自身の課題であると理解することでありましょう。

この演説は歴史への態度として真摯なもので、感動したことを覚えている。
殺害に関わった医師たちが戦後社会に復帰していることもあって、精神障害者などへの迫害は、ユダヤ人への迫害ほどには知られていなかった。この大統領演説だけが理由ではないだろうけれど、この頃からドイツでは実態が明らかにされつつあるようだ。(逆にそういう状況が演説にとりこまれたのかもしれない。)
「優生保護」あるいは「安楽死」という考え方による特定民族・病者・弱者の抹殺は、そもそも精神病院で始まったもので、最初のガス室も精神病院内に設置され、そのシステムがやがて強制収容所に応用されるようになったのだという。
大戦期のユダヤ人の死者は600万人、精神障害者の死者は20万人といわれる。
戦場でもないところで、兵士でもない人間を、これだけ殺害することを可能にしたシステムは精神病院の中で考えだされていた。

かつて僕は精神病院でアルバイトしていたことがあった。
大学で精神医学の講義を受けたこともある。(おかげで僕が知っているドイツ語は、旅行に行こうとして会話集をみても、1,2,3とか数をかぞえるのもやっとなのに、Manie Depressive Irresein-躁鬱病とか、Senile Demenz-老年性痴呆とか、Wahn-妄想とか、一般的でない用語をへんに覚えてたりして、極端に偏っている。)
東京大学精神科教授を1925年に退官した呉秀三が、「我国の精神病者は実に此病を受けたるの不幸の外に、此邦に生まれたるの不幸を重ぬるものと云ふべし」という有名な言葉も、そのころ知った。
ドイツやオーストリアの精神病者も、病気になった不幸のほかに、その時期、その国にいた不幸を負ったことになる。

ここを訪れたときには、僕は大戦中、ここで起きたことを知らずにいた。
ナチス支配下の精神病院だから、ここだけ例外でいられはしないだろうと思ってはいたが、ウィーンから帰って、いくつかの本を読んでみた。
ここでの様子を詳細に記した記録は見つけられなかったが、精神病者(のちには障害児も含む)抹殺の先導的位置にあり、多くの命が奪われたことは確かなようだ。

20世紀初頭、オットー・ヴァグナーとコロマン・モーザーによって美しい教会が作られたが、そこで、やがて大規模で残酷な悲劇が起きるとは、誰も思いもしなかったことだろう。
21世紀初頭に訪れると、中は見ることがかなわなかったけれど、竣工当時の姿に復元されようとしている。
周囲は、静かな穏やかな広い森。
こういうところで、かつて数多くの生命が消される悲劇があったとは、想像しにくい。
秋のウィーンでは、ときたま通り雨にあった。
アム・シュタインホーフでも、工事の塀に阻まれて周囲を歩いてみただけの短い滞在時間のあいだに、さっと雨が降るかと思うと、日が射したりした。
そんなことも思い出しながら、あらためていたましい感情におそわれた。


■ 軍事史博物館
Heeresgeschichtliches Museum  3区 (路面D)Sudbahnhof

アム・シュタインホーフ教会は、歴史的様式を好むフランツ・フェルディナント皇太子に気に入られず、以後、ヴァグナーは公的活動を阻害されるようになる。しかし、1914年に皇太子はセルビアで暗殺される。第1次世界大戦の発端となるのだが、皇太子が亡くなったことについて、ヴァグナーは日記に安堵の気持ちを記している。
『近代建築』の第2版、第3版の序文で、ヴァグナーは近代派のいわば勝利宣言をしているのだが、戦いは終わってはいなかったわけだ。

軍事史博物館では、暗殺されたとき皇太子が着ていた服がガラスケースにおさめて展示してある。


■ カイザーバート水門監視所 1904-08
Kaiserbad Watergate (U2.4) Schottenring

ショッテンリンク駅で地上に出る。運河に沿って車道が走り、その対岸に目当ての監視所が見えている。運河側には歩道がないので、近づいて見ることができない。
遠回りして、運河に沿った低い遊歩道に降りて、まわりこんで近づいた。
遊歩道の壁は金網で、その向こうを地下鉄が走っていく。車道の下が鉄道になっているのだった。
ドナウ運河に沿って市街鉄道ドナウ運河線を建設するのにあわせて運河も整備するために同時期に作られた。

水量調節用の機構を収容する施設で、運河に向かって突き出しているのは起重機を操作する運転室。(写真に見えている外の起重機は別もので、改修中らしい。)
壁面下部は花崗岩パネル。上部は白大理石パネル。止めるボルトが、郵便貯金局と同様に、装飾的につかわれている。
端正なプロポーションに青い波模様が描かれ、土木施設っぽくなくてすっきりしてきれいだ。










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