カーレンベルク山からウィーンのミュージアムと建築

 分離派(セセッション)とクリムト


ウィーン分離派館 セセッション カフェ・ムゼウム(カール教会) ウィーン カールスプラッツ博物館ベルヴェデーレ宮殿オーストリア・ギャラリー美術史美術館ブルク劇場 オーストリア応用美術博物館MAK


分離派は、従来からある歴史的絵画からの決別=分離を理念として、グスタフ・クリムトらのグループが1897年に結成した。(1905年まで存続)
こういう芸術上の革新に対しては、社会の理解が得られなかったり、既成勢力から反発され、抑え込まれようとするのが一般的だろうけれど、分離派については違った。
ウィーン市議会で議員提案で新興グループのための展示施設の建設が決議され、出資者も現れ、結成の翌年には分離派館が完成してしまう。
第1回分離派展の開会にあったては皇帝が出席している。
建築界の中心にいたオットー・ヴァグナーが仲間に加わる。(1899年)

このころ日本では、岡倉天心が日本画の改革を進めようとしていたが、伝統勢力の反発を受け、1898年に東京美術学校長の職を退き、橋本雅邦(がほう)など26名の同志とともに日本美術院を創設している。
こちらには追い風は吹かなくて、1906年には茨城県五浦(いずら)に移転。横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山といった画家たちが、貧しい生活に耐えながら制作した。
のちにはみな認められ、大家になっていくのだが、新しい動きの当初の姿としてはこういうのがいかにも自然で、ウィーンでの分離派の順当な滑り出しが、不思議だった。

分離派の中心のクリムトはウィーンの人だが、他のメンバーは、離れた地域からウィーンに来た者が少なくなかった。
たとえばヨーゼフ・ホフマンはモラヴィアのピレニッツ出身(現在のチェコ)。
オルブリヒはトロッパウ(オッパパ)出身。
オットー・ヴァグナーの父はハンガリー王室の宮廷公証人。
また、分離派の理念・美意識は、ドイツのユーゲント・シュティール、イギリスのアーツ・アンド・クラフツと通じるものがあり、国際的つながりもあった。
このころ、大衆先導的・反ユダヤ的人物がウィーン市長に当選すると、民族主義的な傾向は多くの支配地域を抱えるハプスブルグ帝国の安定を脅かすことになるので、皇帝が拒否権を発動するという事態が起きている。
リベラルな市民は、選挙で当選した市長に拒否権を発動する独裁的な皇帝を支持する。
皇帝は、古い体制や権威への反発を唱える分離派だが、国境や民族をこえる芸術の力を認めて、その保護者となる。
いかにもハプスブルグの世紀末ウィーンでこそ起こり得た、なかなかねじれた状況で、敵の敵は味方であるという力学が働いたり、妥協的で、老獪かつ柔軟、奥が深く、オトナ-という背景があったようだ。


■ ウィーン分離派館 セセッション 
Secession (u1.2.4) Karlsplatz
http://www.secession.at/
設計ヨゼフ・マリア・オルブリヒJoseph Maria Olbrich 1897-98


分離派が結成された翌年、その展示施設として作られた。出資したのはユダヤ人の工業家カール・ヴィトゲンシュタインで、哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの父。

設計は、オットー・ヴァグナーの事務所で働いていたオルブリヒ。
直方体の組み合わせに月桂樹のドームが乗る。壁面にフクロウやトカゲのレリーフがつき、木を植えた鉢は亀が支えている。
建設時から市民の関心を集め、見物する人が多かったという。岡本太郎がいう「なんだ、これは!」状態だったようだ。
完成するとニックネームがついて、「マフディ(イスラム教シーア派の救世主)の墓」「アッシリアの公衆便所」「黄金のキャベツ」とか、なるほどうまいと思う。
とてもかわった形態に見えるのだが、当初の案では両側に左右対称の翼部があった。あとは月桂樹のドームを取り除いてみれば、意外に古典的なスタイルになる。

中にはいくつかの展示室が組み込まれている。
地下にはクリムト制作の「ベートーベン・フリーズ」が復元されている。
ホフマンが会場設計した1902年の第14回分離派展で公開されたもので、1975年から1985年にかけて修復され、1986年から展示されている。
1984年には原寸大複製作品が完成したということだが、いつか日本の展覧会で原寸大「ベートーベン・フリーズ」を見た覚えがある。このとき作られたものが運ばれていたのだろうか。


名高い建築で、写真ではいくども見た。実際に目の前にして、内部まで入って見ることができた。こういう場合、いつでもそうだが、まず「こういうところだったのか」という思いがある。
本などで紹介される写真では、きれいに建物だけが切り取られていて、どういう場所に建っているのか興味があった。
前はふつうの道。かなり車の交通量が多い。
写真は、向かい側の歩道からとっている。
右手まもなくにカフェ・ムゼウムがある。
左手には、ナッシュ・マルクトの細長い市が始まっていて、先まで抜けるとマヨリカ・ハウスと地下鉄Kettenbruckengasse駅に至る。
分離派館の完成時には、ウィーン川に面していて、のちに暗渠化され、道になった。
第2次大戦では、爆撃を受けて建物の一部が損傷したが、戦後、再建された。


■ カフェ・ムゼウム
Cafe museum (u1.2.4) Karlsplatz
http://www.cafe-museum.at/
設計 アドルフ・ロースAdolph Loos1898-99

分離派を(なかでも同業のオットー・ヴァグナーの装飾性を)批判したアドルフ・ロースが設計して、分離派館から少しあとに作られた。
ここでまた不思議なのは、分離派を批判したロースが設計したカフェが、分離派のメンバーが集まる場になったこと。
考えられる理由は、
・分離派とロースとは、従来の歴史主義への拒否という点ではロースと共通していて、正反対の対立関係ではない。
・ウィーンは狭い市域だから、決定的に対立してしまうと、とても居心地が悪くなるから、批判は批判として、つきあいはしておこう、という精神がある。
・ハプスブルクは結婚政策で勢力を伸ばし、生き延びてきた王朝で、人々にもその妥協的智恵がなじんでいる。
定かな理由はわからないけれど、分離派館から近くて便利というのが1つ確かなところかもしれない。

ちょうど昼どきになって、ここで昼食とコーヒーをとった。
ロースが設計した当初とは、いくらか内装がかわっているらしいが、明るくてなかなか居心地がいい。ウィーン工芸の代表、トーネット椅子の赤い曲線が印象的。




■ カール教会
Karlskirche (u1.2.4) Karlsplatz

エルラッハErlach父が設計し、その子が完成させた。1715-39。
チフスの流行がおさまったのに感謝して、カール6世が守護聖人カール・ボッロメウスに献堂したという教会。バロック様式。
中央に神殿形ポルティコ(柱廊)、左右に鐘楼、その間に古代ローマのトラヤヌス記念柱を模した33mの柱が立つ。

分離派館の近く、名前のとおり、カールスプラッツ(カール広場)にある。
そのすぐ北側にはカールスプラッツ駅がある。
拝観料を払って中に入ると、高いドームの内側を改修中だった。透明のエレベータで8割くらいの高さまで上がる。さらにその先に工事用の仮設階段があって、ドームのすぐ下まで上がっていけるようになっていた。
アム・シュタインホーフ教会は工事中で近づけなかったのだが、ここでは工事のおかげですごい高さまで上がることができた。
教会で高みを見上げることはたびたび経験しているが、その高い側から見下ろしたのは初めて。見上げる眺めには目が慣れてしまった感じがあるが、みおろすと「こんなに高いのか!」という驚きが、あらためてあった。
工事のおかげで高いところまで上がれて、アム・シュタインホーフ教会の無念がいくらか埋め合わせされた。




■ ウィーン カールスプラッツ博物館
Wien Museum Karlsplatz (u1.2.4) Karlsplatz
http://www.wienmuseum.at/

ウィーン市歴史博物館と案内書にはあった。
そこに行こうとして、地図をたどっていくとWien Museum Karlsplatz にでてしまう。訳せばウィーン(市)カールスプラッツ博物館くらいか。
ウィーンでは日本での館名とずれているのがよくあって、とまどった。Haus Des Meeres ウィーン水族館?もそうだったし。
このあとの、ベルヴェデーレ宮殿オーストリア・ギャラリーも、オーストリア美術館としてるのもあったし。

1階は、歴史博物館的展示。
中庭にレストランがあり、明るくて、開放的で、快適そうなのだが、改修中。
惜しいと思いつつ階段を上がって、上の階の展示を見ていく。
アドルフ・ロース(1870-1933)の自室が復元されている。「装飾は犯罪」とまでいった、かなり確信犯的な建築家だが、自室は、暖炉を構えた、落ち着いた、わりと当たり前の部屋だった。

自室復元の壁の裏側から、シーレやクリムトの作品が並んでいた。
クリムトは『愛』1895。『パラス・アテナ』1898。『エミリエ・フレーゲの肖像』1902。画集でよく見た作品が並んでいる。

1階の企画展示室では"Schiele & Roessler"という展覧会を開催中だった。
シーレが分離派の仲間の建築家を描いた『オットー・ヴァグナーの肖像』1910はここに展示されていた。谷村新司と荒木経惟をあわせたような様子に描かれている。

上の階の展示室の広いガラス窓からカール教会の偉容が見えた。







■ ベルヴェデーレ宮殿オーストリア・ギャラリー
Osterreichische Galerie Belvedere (路面D)Belvedere
http://www.belvedere.at/
設計ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラント1714-22年。

オスマン・トルコの侵略からウィーンを守った英雄プリンツ・オイゲン公(1663-1736)の夏の離宮。王侯もかなわないほどの広い敷地は、南にむかってゆるやかに上昇している。高い位置にある上宮からは、シュテファン寺院の尖塔を中心に、ウィーン市街のすばらしい眺め(ベルヴェデーレ)が楽しめる。市街のさらに向こうにはカーレンベルク山があり、そこはウィーンを守るために軍が出撃した拠点だったところ。ウィーンを救った英雄にとっては、自尊心をたっぷり満足させてくれる眺めだったことだろう。
没後、マリア・テレジアが王室に買い取り、今はオーストリアの美術作品を展示するギャラリーになっている。



ここにはクリムトとシーレの作品が、多数、展示されている。
(宮殿のギャラリーにシーレというのは、どうもそぐわない感じがするけれど。)
『接吻』1907-08など、クリムトの傑作が広い1室を占めているが、僕はクリムトの風景画も好きだ。ここでは4点だったか、壁に並んでいた。正方形の画面。視線が遠くまで届いている見晴らすような広大な風景ではなく、視線を下げて、近景の、部分をクローズ・アップしたようなのが多い。水や草や花や木が、小さいタッチの積み重ねで描かれていいる。
この安らいだ気分を思わせる絵に比べると、愛や女や死を描いた作品は、ずいぶん構えて、力を入れてかいているのだと思えてくる。

          ◇          ◇

なかなか見る機会がないけれど、ちょっと好みなフリードリッヒCaspar David Friedrich(1774-1840)の作品が3点もあって、思いがけずとくをした気分だった。「霧の海岸」1807など、目の細かいヴェールをかけたような肌合いの、穏やかな風景画だ。

セセッション(分離派館)、カフェ・ムゼウム、カール教会、Wien Museum Karlsplatzは近い範囲にある。
ベルヴェデーレ宮殿オーストリア・ギャラリーはその一帯から南に徒歩20分程度。西に美術史美術館がある。



■ 美術史美術館
Kunsthistorisches Museum Wien (路面1.2.D.J)Burgring
http://www.khm.at/

ゴットフリート・ゼンパーG.Semperとカール・ハゼナウアーC.v.Hasenauer設計で、1881年に完成した美術館。ルネサンス様式とバロック様式が混在。自然史博物館と同じ形の建物が庭をはさんで建っている。
(写真は自然史博物館の窓から美術史美術館を撮影。鏡に写してとっているようなもの。)
ここの廊下のすき間のような位置にクリムトの制作した部分がある。
柱上部のアーチと天井の間の隅板と、柱と柱の間に描かれているのが、数か所。
クリムトは学生時代から仲間と工房を作って作品制作を受注していた。このときは19歳!







■ ブルク劇場
Burgtheater (路面1.2.D) Rathausplatz/Burgtheater
www.burgtheater.at
美術史美術館と同じ、ゴットフリート・ゼンパーG.Semperとカール・ハゼナウアーC.v.Hasenauer設計。1874-88年。

リングに沿って建設された一群の記念碑的施設の1つ。
かつてここにあった城郭(ブルク)を礎石としたという。
14年がかりの建築期間の仕上げの2年のところ、1887年から88年にかけて、クリムトが加わって壁画を描いた。
右側の階段の間に「テスピスの馬車」「シェイクスピアの劇場」「ディオニュソスの祭壇」、左側に「タオロミナの劇場」「アポロンの祭壇」。
美術史美術館と違って、堂々たる位置に描かれている。
1862年生まれのクリムトは20代半ば。こういう国家的施設に、どうして抜擢されたのか。既成画家たちの反発はなかったのか?美術史美術館の制作がよほど高く評価されたのか?





■ オーストリア応用美術博物館MAK
Osterreichische Museum fur angewandte Kunst (MAK)
(u3 路面1.2)Stubentor
http://www.mak.at/

ウィーン万国博覧会1873年に先立ち、ヨーロッパで2番目の工芸専門の美術館として建設された。ハインリッヒ・フェルステルHeinrich Ferstel設計 1867-71。ネオ・ルネサンス様式。 

分離派は、建築家や工芸家をメンバーにもち、額におさめて壁にかける絵画だけではない、生活のすべてを芸術で充たそうとする志向があった。イギリスのアーツ・アンド・クラフツと共通していて、ウィリアム・モリスが営業拠点としてモリス商会をもったように、ホフマンとモーザーが1903年に発足させたウィーン工房には分離派のメンバーが多く関わった。

1899年の第8回分離派展は、工芸をテーマにしていて、スコットランドからマッキントッシュが出品した。そのグループ「グラスゴー・フォー」は、分離派が主張する「歴史性を引きずる要素がない」点に共鳴し、ウィーンの活動を高く評価した。1900年にマッキントッシュはウィーンを訪れて歓迎を受けている。

ウィーン工房には、フリッツ・ヴェルンドルファーというユダヤ人が出資しているが、イギリスを何度も訪問し、自分の音楽室の装飾をマッキントッシュに依頼したほどで、こういう点でもつながりがわかる。
この頃、分離派の盛期は、マッキントッシュの代表作が次々と生み出されていた時期でもあって、ヒル・ハウス1902-04、グラスゴー美術学校1897-91/1907-09、ウィロー・ティー・ルーム1903などがある。

(ヒルハウスを見に行く計画があったけれど、そちらを断念してウィーンに来たのに、最大の楽しみの1つ、アム・シュタインホーフ教会が工事中で入れなかったのだった。かつてグラスゴー美術学校に行ったときは、事前につかんでいたのと公開時間が違って入れず、ウィロー・ティー・ルームは役所の公告みたいな紙が張ってあって、閉鎖していた。どうも相性がよくない。)

工芸を専門とするこの博物館で、ウィーンとグラスゴーの関係を見ることができ、マッキントッシュの壁面装飾なども展示されている。
石や貝をはめこんである。女の唇と、バラの花のいくつかにだけ彩色している。しばらくうっとり眺める。




マッキントッシュや分離派に関心はあっても、ここにはあまり大きな期待をしないでいったのだけれど、思いがけない満足感をえられた。
実際、展示品にとても驚くようなのはなかったのだが、展示(のしかた)に衝撃的を受けた。(その点では、パリの国立自然史博物館以来だ。)
アーティストが展示に関わったのだという。

[ 東方 Orient]
中近東の寺院の奥まった部屋みたいな、石造ふうのミニマルな壁と床だけの部屋の、壁と床に、じゅうたんが敷かれ、架けられている。

[ ビーダーマイヤー Empire Style Biedermeier]
壁や窓際にいくつかの家具の展示。その中央に1列に椅子が並ぶ。
とりたててかわった展示品、びっくりするような仕掛けがあるわけではないのに、壁の色、家具、椅子の配置など、絶妙だった。

[ 歴史主義アール・ヌヴォー Historicism Art Nouveau]
その続きの細長い部屋には、通路の左右に椅子が並び、通路側は白いスクリーンが並んでいる。壁ぎわの光源から椅子にあてられた照明で、椅子のシルエットがこちらに見えている。椅子の形の面白さを強調している。

[ ウィーンの作業場 Wiener Werkstätte]
研究室のようなものを想定しているのだろうか。中央部に、腰ほどの高さのガラスケースに入れた資料。高い壁面には書棚があり、2階にあたる廊下を作ってある。

[ アール・ヌヴォー アール・デコArt Nouveau Art Deco]
仮設階段であがる仮設床のある部屋。ここにマッキントッシュの大きな壁面装飾が展示してあった。
仮設床の上部には[ 現代美術 Contemporary Art ]。

[ バロック ロココ Baroque Rococo Classicism]
様式で作られた部屋を、貨車ほどの大きさに再現している。全体は白い、角張った繭のような形態にしてある。
部屋を出て、順に展示を見て行き、[ アール・ヌヴォー アール・デコ Art Nouveau Art Deco] の部屋に入ると、壁が切ってあり、その窓に青いガラスがはめてある。見下ろすとさきの白かった繭が、ぼーっと青い色をおびて、生き物がひそむように部屋の中央にある。
思わず、元の部屋まで、元の繭の様子を見に戻った。

[ 極東 Far East ] 地下の陶磁器などの展示も、他にこういうのは見たことがない目新しさで、新鮮だった。素材むきだしの壁と床と天井だけに囲まれた部屋が、倉庫のようにいくつも整然と並んでいる。展示品にくだくだしい解説はなく、同種のものが、ひたすら連続している。

それぞれに考えられた展示にわくわくした。
郵便貯金局も、分離派館も、いつか見たいと思っていた地に実際に立ったという感激があった。それにしても、まあ一度見ればいいかなという感じでもあったのだが、ここにはたびたび行ってみたいと思わせる魅力があった。
(でもとても遠い。)


*館内は撮影禁止で写真はとれなかった。MAKのホームページで、[collection]→[permanent collection]→サムネイルをクリック-すると、大きな画像ではないが、様子がわかる。(2004.12.10現在)

*パリの国立自然史博物館については→[パリ国立自然史博物館]



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