カーレンベルク山からウィーンのミュージアムと建築

 アドルフ・ロース ポチョムキンの都市


ポチョムキンの都市カフェ・ムゼウムロースハウスウィーンカールスプラッツ博物館カフェ・ツェントラル略年譜 


アドルフ・ロース(1870-1933)は、オットー・ヴァグナー(1841-1918)より30年ほどあとを生きた人。ヴァグナーについて、才能は認めていたが、装飾的傾向や分離派への支持については批判した。
分離派に属したヨーゼフ・ホフマン(1870-1956)は、同年・同郷の生まれで、生涯ライバルとして批判を続けた。

ブルノ(チェコ)出身。父は、彫刻家・石工頭で、大きな工房の多種の作業を差配して、ロースの手作業への親しみはこの頃培われた。
その後、叔父がいるアメリカにシカゴ博覧会を契機に渡った。シカゴの近代建築の盛期で、ニューヨークにも暮らして、合理主義の精神を学んでいる。
(のちに、ルドルフ・シンドラー、リチャード・ノイトラが、ロースに影響を受けてアメリカに渡っている。)

作家ペーター・アルテンベルク、評論家カルル・クラウス、画家オスカー・ココシュカ、哲学者ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインらと親交があり、19世紀末から20世紀前半のウィーンで、分離派とは別の文化的流れを形成していた。

分離派に対しては、装飾的傾向、住む人に委ねることなく住居(生活)のすべてをデザインしようとすることなどを批判した。
しかし、自身の設計にも装飾的性格があり、また女性解放運動を支持しながら幼女をめぐる性的事件で裁判沙汰になるなど、単純な人ではなかった。

第1次大戦後に住宅が不足したときには、ほとんど無報酬で労働者のための共同住宅の設計にあたり、ウィーン市の住宅建設局主任建築家にも就任した。財源不足や、住宅政策についての政争により、建設は順調には進まず、1924年にはパリに移った。
この頃のパリでは、ル・コルビュジェが『建築をめざして』(1923)『今日の装飾芸術』(1925)を刊行し、1925年にはパリの現代装飾美術産業美術国際博覧会(アール・デコ博)でエスプリ・ヌーボ館を展示している。
ヴァグナー、ロース、コルビュジェという近代建築の流れをたどることができる。

ウィーンに戻ってからはラウムプラン(空間計画)といわれる設計に集中した。2次元の平面図ではなく、3次元の立体として、住居を設計する。身体が移動し、視線が移動する、ということを設計のアイデアのなかで重視し、外観はひどく素っ気ない。
家業が工芸で装飾の問題を扱ったこと、近代建築をめざしながら根底で古典建築を高く評価していたこと、建築における身体や視線のことを考慮した設計をしたことなど、コルビュジェと共通するところがある。

ロースの空間計画については、川向正人の次のような指摘がある。
十九世紀になって、博物館・美術館・学校・議事堂・劇場などが国家的施設として建設され管理されるようになると、かつては住宅が充足していた芸術・宗教・教育・対話などに対する人間の素朴な欲求が、これらの住宅外の施設に吸収されてゆく。」
これは、まさに、ウィーンのリング通り再開発が行ったことだった。住宅で、かつてあったこれらの願望を充たそうとするには、どうしたらよいか。
「その答えを簡単に言えば、水平に広がる大規模住宅の平面を三次元に折り畳めばよいのである。そして、限定されたヴォリュームの中で多様な生活の場をつくり出すには、平面計画ではなく、空間を無駄なく使う空間計画が必要になる。
 これが、ロースの空間計画の意味である。注意しなければならないことは、空間計画が、単に空間を経済的に利用する方法を教えるものではなく、豊かな生活に対するロースの具体的なイメージと1つになったものだということである。」

(アドルフ・ロース 川向正人 住まいの図書館出版局 1987)

ロースは1933年に死去。単純な立方体のミニマルな墓を、生前自分でデザインしていたが、ウィーン市がその設計図に基づいた墓を作ったのは四半世紀後の1958年だった。


■ ポチョムキンの都市

ロースがウィーンを批判した文章に、『ポチョムキンの都市』というのがある。
1898年に分離派の機関誌「聖なる春」に寄稿した。
ロシアの皇帝エカテリーナがウクライナ地方を巡幸するとき、ずるがしこい寵臣
ポチョムキンが、農村が豊かであると見せかけるために、張りぼての風景を作ったという故事に基づいている。
1860年代に、ウィーンでは城壁を壊してリング通りとし、それに沿って市庁舎、国会議事堂、劇場、美術館などをゴシックやルネサンスや新古典の様式を混在させて作っていた。
ロースの批判は、これらの大事業に向けられているのかと思いこんでいたのだが、
『ポチョムキンの都市』を読んでみると、貴族の邸館を装った住宅に住みたがる市民の虚栄、欺瞞に、焦点があるのだった。

オットー・ヴァグナーが1895年に刊行した『近代建築』でも、
「目を欺き、嘘に満ちた、ポチョムキン村を思わせるものやそのような系列にあるものはいくら非難しても非難しきれない。」
という文章があるが、こちらも同様で、むしろヴァグナーはリング通りの公共大事業の成果は賞賛している。

「新しい材料に対しては、新しい造形言語を見い出すことが、建築家に課せられた課題であったというべきではあるまいか。他はすべてイミテーションといわねばならない。」
というロースの批判は、大事業への批判ともなりうるはずだが、ロースも『ポチョムキンの都市』では、そちらにはふれていない。

          ◇          ◇

リング通りの大建築が歴史的様式を混在させて作られたというのが、建築の専門家でもなく、ヨーロッパに育ったのでもない僕には、実感としてよくわからない。日本建築でたとえれば、寺と神社と城と数寄屋造りといったようなのが、ひとつの通りに並んでいるのを想像してみればいいのだろうか。だとすればおかしいと思うのだが、実際にリング通りを歩いた印象としては、どれも立派な西洋建築としておさまって見えた。

ただ、僕も、ガイドブックにいちいち名前がのっていないような建物が並んだ一帯で、なんかへんだなという印象を受けたところがあった。
たとえば、オペラ座の東側、リング通りの内側の数ブロック。
あるいは、証券取引所と、ショッテンリング駅の間の数ブロック。
形は古そうなつくりなのに、壁がきれいで、作り物めいた、軽い感じがする。どこそこの街並みを再現したというテーマパークみたいだと感じた。
戦災で破壊され、戦後、もとの形で再現されていて、そういう印象を生じているのかもしれないと推測していた。
市街図を見直してみると、リング内の古い市街なのに、2カ所とも整然とした、大きな街区をつくっているので、この2カ所についてはその推測が正しいのかもしれないが、ヴァグナーやロースがかつて批判したのは、このような街のことだったかもしれないと思った。


■ カフェ・ムゼウム
Cafe museum  1区 (u1.2.4) Karlsplatz
http://www.cafe-museum.at/
設計 アドルフ・ロース Adolph Loos1898-99

分離派館やオペラ座に近い。
完成当時、ルートヴィヒ・ヘヴェシというジャーナリストに「ニヒル」と形容された。その頃の写真を見ると、湾曲する天井がもっとむきだしに迫っている印象がある。内部が90度に折れている、その一方にはビリヤード台が置かれていた。
分離派のように、椅子やテーブルや壁紙まで、なにからなにまでデザインしてしまわない。椅子はウィーン発のブランド、トーネット椅子を使った。
今は改装され、明るい気分に満ちていて、トーネットの椅子は今も使われている。



■ ロースハウス
Looshaus 1区 Michaelerplatz
設計 アドルフ・ロース Adolf Loos 1909-11

ミヒャエル広場をはさんで王宮に面して立つ。
旧ゴールトマン&ザーラッチュ服飾店。上に共同住宅が入る、8階建の建築。




ロースは、金はなくても着るものは一流のものを身につけていて、そのなじみの洋服店主が依頼した。
下の2つの階、店舗部分は大理石。上階、住居部分は漆喰がむきだしの平坦さで、これに対して激しい非難がよせられ、王宮の向かい側という特殊な事情もあり、市の建築局は工事の中止命令をだした。
オットー・ヴァグナーが仲介に入り、窓が目とすると、眉のようなフラワーボックスつけ加えることで、妥協が成立した。
さすがのロースも持病の胃病を悪化させたが、施主は批判に耐えて建築家を支持した。



批判の理由については、装飾がない壁面が裸のように感じられるとか、無装飾が広まると経済的打撃をうける人造石材業者が強硬に反対したともいわれる。
社会に登場したとき、理解されなかったり、批判されたりしたが、のちに受け入れられたものというのは、よくある。
今、印象派の作品やゴッホなんかを見ても、なぜ当時の人にとってはヒンシュクだったのだろうと不思議に思えるくらい。
でもロースのこの建築は、今見ても、なんだかしっくりしない。
下は大理石で古めかしいし、上も無表情なだけで近代的な機能美とかも感じられない。

ロースは装飾を罪悪とまでいって批判したのだが、正面の柱は建築を支える構造としての機能はなくて、差し込んであるだけだという。飾りにすぎない。上部と下部で、柱の芯がずれているのも奇妙だ。

でも、この建築について書いたロースの文章は抜群におもしろかった。
(『装飾と罪悪-建築・文化論集-』 アドルフ・ロース 伊藤哲夫訳 中央公論美術出版 1987 のうち、「ミヒャエル広場に面して建つ建物についての二つの覚え書きとその補章」。『ポチョムキンの都市』も収められている。)
建築意図もわかるし、施主との信頼関係、ロースの人柄、建築家としての全体状況までが、独特の辛辣さとあたたかみをもった文章で書かれている。


■ ウィーン カールスプラッツ博物館
Wien Museum Karlsplatz  4区 (u1.2.4) Karlsplatz
http://www.wienmuseum.at/

クリムトとシーレは、あちこちの美術館のミュージアム・ショップに画集があり、絵はがきやコースターなんかにもなっていて、いまだにウィーン随一の観光資源らしい。企画展もよく開催され、バスがクリムト展のPRを側面につけて走ってもいた。
オットー・ヴァグナーの建築は、アム・シュタインホーフ教会やカイザーバート水門監視所が改修中だったりで、大切にされている。

ここにロース自邸の居間が再現されてはいるのだが、気がついた範囲では、ロースに関する土産物、ミュージアム・グッズはなかった。ロースの建築は、はなやかさに欠けるし、ウィーンの街のありようを批判してもいた建築家だから、ウィーンの観光資源としては、ふさわしくないと判断されているようだ。

リング・シュトラーセをブラブラ散歩する時、私はいつも思うのだが、現代にもポチョムキンが存在していて、ウィーンを訪れる人達に、なにもかもが気品高いもので満ち満ちている都市にきたようだと思い込ませようと、この男が企んでいるのではないかといった気がする。(『ポチョムキンの都市』)

100年ほども前のロースの文章は、今も生きているようだ。



■ カフェ・ツェントラル
Cafe Central 1区 Herrengasse14
設計 ハインリッヒ・フェルスター(ヴォティーフ教会の設計者) 1828-1883

銀行、株式取引所、店舗などが入る複合施設Palais Ferestel内のカフェ。
角地がカフェの入口になり、反対側はフライウングFreyungというパッサージュになっている。高級店舗が並んでいるのではなくて、ウィーン土産の店や散髪屋なんかがあって、ちょっと下町ふうでおもしろい。

カフェの店内はかなり広い。日本のカフェやレストランでは、こういう椅子の配置はしないなあという奇妙なところがあって、どいういうふうに座って、どういう会話状況になるのか、見てみたいようだった。(僕が入ったときはその席はあいていた。)

入口にある等身大の人形がロースの友人アルテンベルク。
アルテンベルクとは生涯の友人で、アルテンベルクが精神を病んで(オットー・ヴァグナー設計の)アム・シュタインホーフ教会に入院すると何かと面倒をみたという。
アルテンベルクが亡くなったとき、ロースが墓を設計している。ロースの前掲書には味わいのある追悼文も収録されている。
ロースとアルテンベルクは、少女好みという共通点もあった。






■ アドルフ・ロース略年譜

1870 ブリュン(チェコ)に生まれる
1890 ドレスデン工科大学に入学
1893 渡米 シカゴの万国博覧会を見る ニューヨークにも滞在
1896 ウィーンに帰る マイレーダー建築事務所に勤務
1898 分離派の機関誌「聖なる春」に『ポチョムキンの都市』を寄稿
1899 カフェ・ムゼウム
1902 最初の結婚
1905 2度目の結婚
1907 ケルントナー・バー
1908 講演「装飾と罪悪」
1911 ロースハウス完成
1913 紳士服の店クニーシェ
1918 神経性胃炎が悪化し手術
     第1次大戦終結 ハプスブルグ帝国崩壊
1919 3度目の結婚
     友人の作家アルテンベルク死去、墓を設計
1920 ウィーン市住宅建設局主任建築家(-1922)
     集合住宅のいくつかが実現
1922 シカゴトリビューン社屋国際コンペ応募
     パリに住む
1928 ウィーンに戻る 4度目の結婚
1931 ロースの墓のスケッチ
1933 死去(8/23)
1958 ウィーン市がロースのスケッチによる墓を中央墓地に作る
      (年譜は主に『アドルフ・ロース』伊藤哲夫 鹿島出版会 1980による)



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