カーレンベルク山からウィーンのミュージアムと建築

 カーレンベルク山から赤いウィーンⅠ


カーレンベルク山久米美術館・東京都写真美術館カール・マルクス・ホフ


■ カーレンベルク山
Kahlenberg 19区

アルプスの山岳地帯は東に向けて低くなってハンガリー平野に移行していく。
アルプスの高みの最後がカーレンベルク山で、ウィーン市街が平野の最先端になる。ウィーン市街からは北西方向に眺められる。
地下鉄U4のハイリゲンシュタットHeiligenstadt駅からバス路線があり、途中には、できたてのワインを飲ませるホイリゲの村グリィンツィングGrinzingもあり、ウィーンから手頃なハイキング地になっている。
1683年、トルコ軍の2回目のウィーン攻撃のとき、ポーランド王ヨハン・ソビエスキの援軍と、オイゲン公指揮の軍が集結し、ウィーン救済の戦いに出撃した歴史的いわくのある地でもある。

          ◇          ◇

ハイリゲンシュタット駅をでると、道を隔てたすぐ目の前に長い長い公共住宅カール・マルクス・ホフがある。道のこちら側にカーレンベルク行きのバス乗り場があって、38Aに乗る。
途中から女子の中学生か高校生か、10人くらいのグループが引率の若い先生に連れられて乗ってくる。かなり派手で、上滑りな話しぶり。数人に囲まれて座るようなことになってしまったが、幸運と喜ぶより、へんにかかずらうことにならないように注意しないと、みたいな感じで、窮屈になってしまった。

グリィンツィングは、市街に比べてひなびているが、いかにも「ひなびた観光地」という風情で、あえて寄ろうという気にならない。
ここを過ぎると、山に向かう道らしくなって、S字の坂を上がっていく。
女子グループは途中の名勝地コベンツルで降りた。やれやれ。
僕はそのままバスに乗って終点まで乗った。
広い駐車場があるが、ほとんど止まっている車はない。

ポーランド王+オイゲン公連合軍が総攻撃を前にミサを行ったいうソビエスキ礼拝堂


みやげものやの屋上が展望台になっている。
この山からウィーン市街に向けて下っていく斜面は緑の丘で、耕作地も混じっている。その向こうに市街が広がっているが、あいにく空気がかすんでくっきりした展望ではなかった。それでも、フンデルトワッサーのごみ焼却場の煙突や、かろうじてシュテファン寺院の尖塔も見えた。



視界がきくときなら、チェコ、スロバキアまで眺めることができるという。
日本の観光地によくあるようなコイン式望遠鏡が3つ。
音声ガイドがあり、日本語版もあった。1ユーロ1個か50セント2個で聞けるが、どちらも持ち合わせがなくて聞けなかった。


高齢の女性2人連れ、やはり高齢の夫婦1組に出会ったくらいで、閑散としていた。ホテルの建物があるが、廃業していて、落書きされ、ガラスが割れている。
夜景なんかも見事だと思うのだけど、近すぎてホテルにはむかないのかもしれない。


山道に入ってみる。
日本の低山と同じ。専門家なら植生の違いがわかるかもしれないが、詳しくない目で見たところでは、日本のそこらの裏山とかわらない、あたりまえの林にあたりまえの草が生えている。
日本にワープして帰ってしまったような錯覚にさえとらわれる。
オーストリアに来たのに、アルペン的大景観どころではない、こんなところで、ウロウロしている。
ウィーン市街をひとまとめに眺めた満足、地理的全体を実際に目にした満足はあるのだ-と考え直して、それは確かにそうなのだけれど、やっぱり負け惜しみかなあと思ってしまう。



■ 久米美術館・東京都写真美術館

久米美術館
東京都品川区上大崎2-25-5久米ビル8階
tel.03-3491-1510

東京都写真美術
東京都目黒区三田一丁目13番3号 恵比寿ガーデンプレイス内
tel.03-3280-0099
http://www.syabi.com/


博物館や美術館で、ウィーンの全体を描いた絵を幾度か見た。
城壁に囲まれた街だから、そっくり画面におさめやすいということがあるかもしれない。いろいろな時代のウィーンが描かれている。

はじめにウィーン カールスプラッツ博物館Wien Museum Karlsplatzで見たとき、まるで函館の五稜郭だと思った。
堀に囲まれ、戦う砦としての機能と形態をもった多角形。
江戸の鎖国期をぬけて欧米事情を視察にでた岩倉使節団は、1873年に万国博覧会開催中のウィーンを訪れた。その記録で、やはりウィーンを五稜郭(記録の文章では五稜角)にたとえている。

此府の広さは、約我2里四方もあるへし、分つて9大区となし、内部外部の別あり、其地勢、北には岡稜あり、東北には多脳(だにふ=ドナウ川)の大河、中州の分ち、其西支は、内外廊の間を流る、此河流にそふて、西岸の地に五稜角の墩塁(とんるい)を築きて匝繞(そうじょう)す、其墩内を第一区とす
(特命全権大使米欧回覧実記(四) 久米邦武編 岩波文庫 1980 原文片仮名)

久米邦武は1872年から1874年までの岩倉視察団の米欧視察の記録を、5冊の書にまとめた。ベストセラーになり、500円の賞金を得て、今の目黒駅付近に5000坪の土地を買った。

いくら大部の報告書とはいえ、5編5冊の本を書き上げる仕事で5000坪の土地が手にはいったとはうらやましい。1冊1000坪ではないか。「白金台町の外れ権之助坂上」とは目黒のあたりであるが、当時は「植木溜のようになつて、実収は少ないが、富岳の眺望を楽しむ丈(だけ)の土地」だったという。この目黒の風景といい、それが購入できたことといい、まさに隔世の感がある。
『東京の[地霊(ゲニウス・ロキ)]』鈴木博之 文春文庫 1998

息子の久米桂一郎(1866-1934)は画家になり、父と同様に欧州に留学(1886-1893)した。同じ頃に留学していた黒田清輝と親しく、帰国後、白馬会を結成。後半生は国内外の多くの博覧会に関わるなど、美術行政家として活躍した。
今は目黒駅近くに久米美術館があり、『米欧回覧実記』の初版本など、久米親子が生きた軌跡も見ることができる。
5000坪の一部をビール会社に売った土地は、今は恵比寿ガーデンプレイスになり、東京都写真美術館がある。


中央のビル内に久米美術館。左に目黒駅があり、右の道を下っていくのが権之助坂。 高層ビルの足下にあるのが東京都写真美術館。


■ カール・マルクス・ホフ
Karl-Marx-Hof 19区 Heiligenstadtesstr.82-92
(U4)Heiligenstadt

ハイリゲンシュタット駅前にあり、全長1キロ、1000世帯以上が住む公共住宅。1920年代社会主義的政策の時代の象徴で、オットー・ヴァグナーに学んだカール・エーン設計で1927年にできた。
カール・マルクス(1818-1883)は、1848年の8月27日から9月7日までウィーンに滞在したことがある。



1918年に第一次世界大戦が終結し、ハプスブルク帝国は「ドイツ・オーストリア共和国」に縮小した。
兵士が帰還するなどして、ウィーンの人口は220万人にも達した。20世紀末が150万人程度だから、それより多かった。
多くの住民の居住環境はひどいもので、狭く、電気、ガス、水道もなかった。
食料も不足し、失業、インフレなど、ひどい状態を背景に、1919年のウィーン市議会選挙では、総議席165のうち、社会民主党が100議席の絶対多数をとり、社会主義的政策がとられた。教育制度の改革、病院やプールの建設などが進められ、「赤いウィーン」といわれる。
市長ヤーコプ・ロイマンは、住宅問題担当に弁護士グスタフ・ショイをあてたが、ショイの父はオーストリア社会民主党の創設者の1人で、ショイ自身はイギリスの田園都市運動の信奉者であり、アドルフ・ロースと親しく、1912年には住まいの設計も依頼している。
1920年に、ロースはウィーン市住宅建設局主任建築家に任命され、1922年まで在職し、集合住宅のいくつかが実現している。

1917年、ロシアに革命が起きてソビエト連邦という社会主義国家が誕生している。
ドイツでも、この頃、ブルーノ・タウト(1880-1938)が、ブリッツの馬蹄形ジードルンク(1925)など、ベルリンの周辺地域に共同住宅を建てている。
大きな馬蹄形の住宅は内部に広い庭を抱えて気持ちよさそうだし、ほかに日照に配慮した平行配置の共同住宅も作られているが、1キロも続く長い住宅にはどういう理由があったのだろう。

タウトは、1933年1月、ヒトラーが政権をとる直前にドイツを脱出し、日本に向かうのだが、オーストリアでも右旋回が起きる。
キリスト教社会党の党首ドルフスは、政権をとると、1933年3月に議会を停止して独裁体制をとり、検閲・共産党の非合法化・労働運動の全面禁止など、オストロ・ファシズムを押し進めた。
これに対抗して社会民主党が1934年2月に武装蜂起を各地で起こし、カール・マルクス・ホフにも立てこもって銃撃戦があったが敗れた。

ドイツとオーストリアにファシズムの政権ができて、ファシズム同志、いっしょじゃないかみたいなものだけど、ドルフスはオーストリア独立路線で、それを気にいらないヒトラーは1934年7月25日、軍を派遣して首相官邸でドルフスを暗殺した。
このときは抵抗を受けていったん撤退したのだが、ヒトラーはオーストリアへの野心を諦めず、圧力をかけ続けた。
1938年3月15日、ついにヒトラーがウィーンに入り、英雄広場で演説すると、大ドイツに憧れる市民に熱狂して迎えられた。

このあと行った建築ミュージアムには、「RED WIEN」の一角があり、カール・マルクス・ホフの説明もあった。
幼稚園や郵便局や診療所もあり、当時としてはいい生活ができたようだ。
「水道runnning waterはあるが、風呂もシャワーもなかった」という説明文があり、共同のシャワー室が並んでいる棟(あるいは階か)の写真があった。白く無機質な空間にドアが並んでいる。やがて現れるナチスのガス室に雰囲気が似ている-という印象があって、不意打ちされたようなショックがあった。社会主義的政策による住民のための施設が、イメージとしてファシズムの殺人施設を予告しているかのようだった。



駅からはこんなふうに並行している。

駅および線路----------
やや狭いバス通り========
カール・マルクス・ホフ□□□□□□
公園     †††††††††††††††††
広い通り============
商店街 ∪∪∪∪∪∪∪∪∪∪∪∪



カール・マルクス・ホフのアーチを抜けて公園にでてみる。草地に木々が点在している程度で、つくりすぎていない、感じのいい公園で、秋にはたくさんの栗が落ちていた。(というより、歩いている間にもボトっと落ちてきて、気をつけないと痛そう。)
人が住む住宅だから中の暮らしぶりを見ることができないのが残念だが、今は落ち着いた生活があるのだろうと思う。

(上の写真は、商店街を背にして、広い通りの一部と、公園をとおしてカール・マルクス・ホフをとっている。その向こうに駅がある。)



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