カーレンベルク山からウィーンのミュージアムと建築

 独裁者  ヒトラーもムッソリーニもスターリンも、独裁者はウィーンへ


造形美術アカデミー絵画館 / 軍事史博物館 / シュテファン寺院ゲシュタポ本部跡 / ウラニア天文台 / アム・シュタインホーフ教会市庁舎 / チャップリンの『独裁者』


1933年からのキリスト教社会党の党首ドルフスによるオストロ・ファシズムは、1934年7月、ヒトラーの軍によるドルフス暗殺で終わる。
1938年3月15日、ヒトラーがウィーンに入り、ナチスによるファシズムの体制が始まる。

アドルフ・ヒトラー(1889-1945)は、オーストリアのブラウナウBraunau am Innの生まれ。ザルツブルグの真北、川を越えればドイツという国境の都市で、東へウィーンに行くより、西のミュンヘンのほうが距離的には近い。

ヒトラーは16歳でウィーンに初めて行った。

わたしは帝室博物館の絵画室を見にいったのだが、目はほとんど博物館そのものに対してだけ集中していた。毎日、朝早くから夜遅くまで、名所から名所へと走り回ったが、何はさておきわたしをひきつけたのは、いつも建物ばかりだった。こうしてなん時間もわたしは歌劇場の前に立ち、なん時間も議事堂に目を見はっていた。環状道路がすべて千一夜物語の魔法のように、わたしに働きかけた。
( わが闘争1 アドルフ・ヒトラー 平野一郎・将積茂訳 黎明書房 1961 )

分離派館はすでに数年前からあるし、オットー・ヴァグナーのウィーン郵便貯金局も完成しようとしていた頃だが、ヒトラーの関心は分離派や近代建築にはなくて、歴史的様式を模して作られた大建築に集中していたようだ。
美術学校の試験に不合格だったあともヒトラーはウィーンに暮らし、「魔法」に魅入られてオペラ見物などをしているうちに金を使い果たし、今もホームレス用に使われている救済施設に住んだが、このどん底の生活が、当時ウィーンで活躍していたユダヤ人への憎悪を育てた。

ヴィーン-多くのものには悪意のない歓楽の縮図と考えられ、遊び人には華やかな場所と考えられるこの都市が、わたしには、いかんながら自分の生涯のいちばんあわれな時代を、まざまざと思いださせるだけである。 (前掲書)

この頃のウィーンには、やがてもう一方の独裁者になる人物が訪れていた。

スターリンはウィーンへ行き、1913年1月から2月にかけて1カ月滞在した。これは、スターリンの生涯における最も長い外国暮らしとなった。(中略)スターリンがウィーンに行ったのは、ヒトラーがまだこのオーストリアの首都にいたころだから、あるいは二人は人混みのなかですれちがったかもしれない。
( 『対比列伝 ヒトラーとスターリン』アラン・ブロック 鈴木主税訳 草思社 2003 )

これはあくまで可能性としての話だが、スターリン(1879-1953)は、このときすでに長くウィーンに暮らしてカフェに出入りしていたトロツキー(1879-1940)に会っている。(トロツキーはやがてスターリンと対立し、スターリンの使者に暗殺されることになる)。
後のことになるが、イタリアのムッソリーニ(1883-1945)は、戦争末期に失脚して一時ウィーンに逃れていたことがある。
この頃のウィーンという都市の世界史的位置を考えると、なにがこれほどまで人をひきよせたのだろうと不思議に思う。
ひょっとした出会いがその後の歴史をまったくかえていたかもしれないとさえ思える。


■ 造形美術アカデミー絵画館
Akademie der bildenden Künst, Gemäldegalerie
1区 Schillerplatz
http://www.akademiegalerie.at/

ヒトラーは1907年9月と、1908年2月に、ウィーンに行き、美術アカデミー絵画科を受験したが、不合格になる。

わたしは学長に面会し、そして美術大学の一般絵画科の不合格理由を説明してくれるようたのんだ。かれはわたしに、わたしが持ってきた絵が画家としての不適性を示していることには異論がないが、しかしわたしの才能がはっきりと建築の分野にあり、わたしには美術大学の絵画科でなく建築科だけが問題となる、と確言した。(中略)わたしは打ちのめされて、青年時代にはじめてわたし自身に不和を感じ、シラー広場にあるハンセンの豪壮な建物を後にした。(中略)美術大学の建築科へいくためには、技術の建築学校を出ていなければならなかった。さらにそこへ入るためには、その前に中等学校での卒業試験をすませておかねばならなかった。これらすべてがわたしには完全に欠けていた。人間として考えれば、このように芸術家になろうとする夢は、もはや満たされる可能性がなかったのであった。 ( わが闘争1 前掲 )

ここで、「ハンセンの豪壮な建物」とあるのが造形美術アカデミーで、テオフィル・ハンセンが設計した。ハンセンは、ほかに国会議事堂(1883)や、楽友協会(1890)を設計している。

ヒトラーがアカデミーを受験するより前、エゴン・シーレは1906年10月に合格し、グリーペンケールの教室に入る。1909年4月に、グリーペンケールとあわずに退学したが、ヒトラーの2度の受験のときには在学していた。
また、建築科では、やはりオットー・ヴァグナーが1894年から1912年まで教授をしていた。



アカデミーは中庭2つを囲む「日」の字形の建物で、その1つの階の長い1辺がギャラリーになっている。正面の入口を入って、階段を上がり、長い廊下をギャラリーに向かって歩いていくと、画学生に行き会う。当たり前だけど、そうか、ここは美術大学なんだと思い出す。

1辺の教室を全部ぶち抜いてギャラリーにしてあるので、細長い展示空間になっている。教室部分を突き当たるまで見て行って、廊下にでて元に戻ってくる構成になっている。

ヒロエニムス・ボッシュ (Hironymus Bosch 1450-1516)の「最後の審判The Last Judgment」、ボッティチェリ(Sandro Botticelli 1445-1510)の「聖母子 Madonna mit Kind und zwei Engeln」、クラナーハ( Lucas Cranach the Elder 1472-1553)の「ルクレツィアLucretia」などがある。


■ 軍事史博物館
Heeresgeschichtliches Museum  3区 (路面D)Sudbahnhof

「彼はクリスティアン・グリーペンケアル、また教授のルドルフ・バッハー、アロイス・デルーク、及びジークムント・ラレマン・・・によって試験されたのかもしれない」と、ヴェルナー・マーザーは記している。クリスティアン・グリーペンケアルは、軍事歴史博物館の栄誉の殿堂(ルーメスハレ)の装飾にあたって画家カール・ブラースの助手をつとめ、またジークムント・ラレマンは戦場を描くことにかけては著名な画家であった。歴史画家の助手と戦争画家がアドルフ・ヒトラーを絵画の学生として受け入れることを拒み、戦争の現実の中へ差し戻した、そこで彼は現実の司令官となり歴史的な人物となった、と想像することはグロテスクでもあれば月並でもあって、思うだに恥ずかしくなるような話である。
( 『 ウィーンの内部への旅 死に憑かれた都 』 ゲルハルト・ロート 須永恒雄訳 彩流社 2000 )

ここで名前がでているグリーペンケアルは、前述のシーレの主任教授である。


アカデミーデミーと同じハンセン設計の軍事史博物館


フランツ・フェルディナント皇太子が1914年にセルビアで暗殺され、第1次世界大戦が始まる。
オーストリアはロシアに宣戦布告し、ロシア人はオーストリアにいられなくなる。

ガイヤーは、明朝にもロシア人とセルビア人とに対する拘禁命令が出される可能性があることを用心深い言葉でほのめかした。
「つまり退去せよとお勧めになるのですな?」
「早ければ早いほどけっこうです」
「わかりました。明日、家族を連れてスイスへ発ちます」
「ふむ・・・・・今日にでもお発ちになるほうがよいと私は思いますがね」
 この会談が行なわれたのは午後三時であったが、午後六時一〇分には私は家族を連れて、すでにチューリッヒ行きの列車に乗っていた。背後には、七年にわたった交友関係、本、文書さらにはロシア文化の将来についてのトマス・マサリック教授との論争を含んだやりかけの仕事をどっさり残したままであった。
( トロツキー自伝 高田爾郎訳 筑摩書房 1989 ) 


■ シュテファン寺院
Stephansdom 1区 Stephansplatz

ウィーンを象徴する教会。12世紀から13世紀にかけて作られた。
アドルフ・ロースは「我々に我々自身の歴史を物語ってくれる、このうえなく美しい内部空間」といい、アドルフ・ヒトラーは「いくら見ても見飽きなかった」といっている。

正面の壁、入口の右側に「05」と刻まれている。
0(ゼロ)はO(オー)、5はアルファベットの5番目のEのことで、オーストリアOesterreich の最初の2文字を示している。ナチスに抵抗するグループが記したのだが、戦争が終わると、レジスタンス勢力は権力に関わることができないまま埋もれてしまった。壁の数字だけはアクリルらしい透明のカバーで保護されている。




■ ゲシュタポ本部跡
1区 Morzinplatz

シュテファン寺院の北、リング通りに沿って細長いモルツィン広場がある。通りはこのあたりではドナウ運河に並行している。
広場にはかつてメトロポルホテルがあり、ウィーンのゲシュタポ本部として使われていた。
その建物の一部を使って、記念碑が作られている。


■ ウラニア天文台
Urania Sternwarte 1区Uraniastraße
(U1.U4)Schwedenplatz  (路面電車1.2)Julius-Raab-Platz

ゲシュタポ本部跡からリング通りを東へ歩いて数分、ウィーン川がドナウ運河に流れ込むところに、ウラニア天文台がある。
広い交差点の一角で、ドナウ運河に並行して西から東に向かっていた路面電車が大きく右に(南に)向きをかえるところで、しかも交差点に向かって大型タンカーが進んでくるような特徴ある形をしているので、よく目立つ。
ヒトラーがウィーンに入ったあと、こちらの曲面の壁にヒトラーの大きな肖像画が掲げられていた。


■ アム・シュタインホーフ教会
Kirche am Steinhof 14区

オットー・ヴァグナー設計の教会は精神病院内にあるが、優れた民族、優れた心身を持つ者だけが存在する価値があると考える独裁者の方針にそって、人を救うべき病院が、一時、人の存在を消す施設として使われた。


■ 市庁舎
Rathaus 1区 Friedrich-Schmidtplatz
フリードリッヒ・フォン・シュミット設計
1872-1883 ネオゴシック

市庁舎前の広場を行進するナチスの軍隊-ではなくて、たまたま何か軍の儀式が行われていた。ぐるっと見物の人が取り囲んでいた。かつてナチスの集会ではもっと大勢の人が熱狂して集まっていたのだろう。


■ チャップリンの『独裁者』

チャップリンは1889年4月16日、ロンドン生まれ。
ヒトラーは1889年4月20日、オーストリアのブラウナウの生まれ。
チャップリンがこの映画で、ユダヤ人の床屋と独裁者がうり2つである設定をしたのには、自分がヒトラーとわずか4日違いの生まれであることが発想のもとにあったかもしれない。

この映画をずいぶん前に見たときには、事後に(ヒトラーの時代が終わったあとに)、「独裁者」というものを戯画化した映画を作ったのだと思いこんでいた。でも1939年に、ヒトラーが権力をもっていた同時期に、アメリカで非難や妨害にあいながら作っていたのだった。
さらにこの映画が大きな理由の1つとなって、チャップリンは1940年代後半には赤狩りの対象になり、アメリカから出国することにもなっている。
こうした人、こうして作られた映画のことを忘れないでいようと思う。

ウィーンから帰ってあらためて見直してみて、オーストリアを舞台にしている背景がよくわかった。
愛するハンナはオーストリアに逃れたのに、そこもナチスの国になって、兵士に襲撃されようとする。
そこで「独裁者」となった床屋が演説する声が届く。

Hannah, can you hear me?
Wherever you are, look up Hannah.


そして暗かった空には明るい日が射してくる。

Soldiers! と呼びかけて戦いをやめるように訴えた映画が非難されたことは、60年余りも経た2001年の9.11テロのあと、ジョン・レノンのイマジンがアメリカのラジオ局で放送自粛になったことにつながっているようだ。



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