Ⅱ-13 『大阪ど根性物語 どえらい奴』-棺を運ぶ人、水を運ぶ人


明治から大正にかわる頃、大阪で葬儀社を経営していた人が霊柩車を発案した。
それまでは葬列を組んで遺体や遺骨を歩いて運んでいたが、自動車に乗せて運ぼうとした。
旧来のやり方になじんでいた人たちには衝撃的な変化だった。
この発案者には実在したモデルがいる。
発案者自身今までのやり方に深い思い入れがあったので、自動車を使うことに大いに悩んだが、時代にそぐわなくなっているという見極めから、決断して実行したのだった。
映画では、旧来のやり方に固執する親方と、車で運ぼうとする使用人を設定して新旧の考え方を代弁させ、別人格が対立する図式にした。
 葬式に自動車つこうたらどうやろ
 駕籠の行列、古うおまんねん
 家から自動車でブーッとお寺や斎場に行ったら 時間もかからんし お客さんも喜んでくれはるし
 きっと自動車の時代が来まっせ


親方のひとり娘とその使用人との恋、勘当、生まれた孫をこっそり物陰から見やって涙ぐむ親方、というふうに浪花の人情喜劇に仕立てていて、楽しめた。

映画に誘われて『霊柩車の誕生』(井上章一 朝日選書 1990)という本を読んだ。
その頃に都市部では車の交通量が増え、路面電車も走り、葬列が妨げもし、葬列が妨げられもし、時代にそぐわなくなっていた。霊柩車は当然に現われるべきものだったことになる。
それが、黒とか金とか漆とかの部材を使い、寺か神社のミニチュアのような形(宮型霊柩車といわれる)で作られるようになったのはなぜか-など幅広い考察が展開されて、この本もとてもおもしろかった。

映画では、葬儀屋のほかに、水屋という職業も登場する。
明治以後の近代化で都市の住人が増えるが、井戸の水では足りない。 淀川筋や高台で水を調達して各家庭に配達する水屋という商売があった。
主人公と対立する葬儀社に水屋が出入りしていて、顧客の奪い合いになった場面で主人公がこんなふうにいう。
  このごろ悪い水屋がおましてな。
 ご家庭に出入りしてるのを幸いに葬儀屋と結託してポチ稼いでまんねん。

また『霊柩車の誕生』によると、水道が普及すると実際に水屋から葬儀社に転職する人が多かったという。
映画でも、水屋は廃業し、主人公の葬儀社に雇われている。
転職だけでなく、葬儀屋が水屋とよばれることもあり、葬儀社が水屋をかねていることもあったらしい。
いずれにしても、棺を運ぶ人と水を運ぶ人は密接なつながりがあったようだ。
映画からそうした時代背景が見えてきて興味深かった。

そんな社会状況を喜劇に仕立てているのもおかしかった。
主人公は藤田まこと、持っている自動車を霊柩車に改造して主人公と組むのが長門裕之、水屋は大村崑、ほかにクレージーキャッツから谷啓、犬塚弘など、そうそうたる喜劇スターが出ている。
主人公がライバルに対抗するために棺を作る人を自社の専属にしようとはたらきかけたときのこと、作る人はためらうが、厚い札束を渡されるとすっかり乗り気になっていう。
 棺箱(かんばこ)な、まかしといておくなはれ。
 わいの作った棺箱ね、入った人からまだいっぺんも小言きいたことおまへんのや。

映画のDVD版には予告編が収録されていて、 「天国行きのスピード.アップ 霊柩車第1号」 なんていうのもおかしった。

またまた『霊柩車の誕生』によるが、こんなふうにある。
  「大正八年十一月から大阪では流行性感冒が蔓延する。死者も数多くでて「霊柩車昼夜運転頗(すこぶる)る多忙を極」めるようになった。」
映画のモデルの葬儀社では、大正9年に霊柩車を2台増やして3台にしたが、それでも3台とも「日夜運転繁用其極に達す」という状態だったという。
大正8年は1919年で、この流行性感冒というのは1918年から1920年にかけて世界的に大流行したスペイン風邪といわれる疫病のこと。
100年後のコロナウィルス禍に先立つ世界規模に広がった疫病だった。
スペイン風邪が、霊柩車で遺体を運ぶという方式の定着を推進したという面もあるかもしれない。
僕が格別に関心をもっている2人の画家-日本の村山槐多(1896-1919)と、ウィーンのエゴン・シーレ(1890-1918)-がスペイン風邪で亡くなっている。 コロナウィルスは持病のある高齢者を脅かしているが、スペイン風邪は若年層に感染者、死者が多かったということで、2人の画家もまだ若かった。
大阪の霊柩車をめぐる喜劇映画からそうした画家たちのことも思い出すことになった。


* 『大阪ど根性物語 どえらい奴』 鈴木則文監督 藤純子ほか出演 1965
   原作は長谷川幸延『冠婚葬祭』
* 『霊柩車の誕生』 井上章一 朝日選書 1990
* 「水売り」 堀越正雄 『鋳鉄管』第14号 日本ダクタイル鉄管協会 1973