Ⅱ-15 『潜水服は蝶の夢を見る』-左目のまばたきで飛ぶ

ファッション誌『ELLE』の編集長だったジャン=ドミニック・ボービーは、車を運転中に脳溢血が起きたが、3週間の昏睡のあとに目覚めた。
全身がマヒしていて、体はまったく動かせない。
目は見え、耳は聞こえるから、外界を認識することはできる。
でも、言葉にしろ身振りにしろ、意思表示ができない。
フランス映画なのだが、医師のセリフとして、こういうのは英語で「Locked-In syndrome」(閉じこめ症候群)というのだと説明される。

ただ左目の眼球とまぶただけは動かせる。
最初の意志交換は、「はい」なら1回まばたき、「いいえ」なら2回まばたきすることとして、どちらかの返事だけはできる。
さらに、言語療法士がやってきて、もっと高度な交換をめざすことになる。
言語療法士が、フランス語でのアルファベットの出現頻度順に「e,s,a,r...」と発音していき、ボービーはその文字のところでまばたきする。
発音が遅すぎたら目的の文字にいたるまで目を開けていられないし、速すぎたら目的の文字でまばたきするのが難しい。
それでも発音する人も、まばたきする人も、しだいになれていく。

フランスのほか、いくつもの国で発行されるほどの『ELLE』の編集長だった人だから、感受性が豊かで、それを表現する能力やセンスも抜群だったことだろう。
そんな人が意思表示できなくなるのはとてもきびしいことに違いないが、しだいに気持ちが転換してくる。
自分は重い潜水服を着けた人のようだと感じている。

  それでも 左目のほかに麻痺していないものが2つ
想像力と記憶だ 想像力と記憶で僕は潜水服から抜け出せる (映画から)


その想像力と記憶のおかげでヒラヒラと空中を舞う蝶になれると思うようになる。

『潜水服は蝶の夢を見る』
当初の絶望期をすぎると、自伝を書こうという気力が起きてくる。
出版社から筆記のための人がやってきて、2人の風変わりな忍耐を経てできあがったのが原作の著書で、それをもとに映画化もされた。


ボービーのようなケースではほとんどが死に到り、生き残って閉じこめ症候群になるのは宝くじにあたるほどの確率だという。
ただ、そんな経過は特殊だとしても、認識はあるのに動けないというのは稀なことではない。
このところ移動について思いつくことを並べている第1集の『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』で、「老いるとは自由に移動できなくなること」と記した。
多くの人が、老いることによって徐々に閉じ込められていく。
ボービーの父もまた高齢で、同じ状況にはまっている。

   父に最後に会った時、僕は父の髭を剃った。僕が倒れた最後の週のことだった。 (中略)  あれが、父と会った最後だ。以来僕は、この保養地ベルクを出ることができず、九十二歳の父は、アパルトマンの荘厳な階段を、もはや下りることができない。僕たちはそれぞれに、ロックトイン・シンドロームにかかってしまったというわけだ。僕は自分の肉体の中に、父はあの三階の部屋に閉じこめられて。 (原作から)

特殊な経験についての映画にひかれ、もとの著書まで読んでみる気になったのは、我が身にも起こりうる可能性が小さくないと感じたからかと思う。
病院のベッドに収容されても、希望のもちようがあるかもしれない-とかすかな暖かみを覚える。

* 『潜水服は蝶の夢を見る』 ジャン・ドミニック・ボービー 河野万里子・訳 講談社 1998
* 『潜水服は蝶の夢を見る』 Le scaphandre et le papillon 2007 監督:ジュリアン・シュナーベル 主演:マチュー・アマルリック
* ジャン・ドミニック・ボービーがパリの病院から移され、本を書いたのは マリティム・ド・ベルク AP-HP病院(L'Hôpital maritime de Berck AP-HP) のようだ。 (原作に「淡いベージュのレンガを積み重ねた、北フランス独特の高い壁。ベルクの町と、英仏海峡の灰色の海にはさまれて、病院は砂浜の真ん中に坐礁した船のようにも見える。」とある。)  
https://www.aphp.fr/