Ⅱ-18 『1001グラム ハカリしれない愛のこと』-魂を見送る

「はかる」ことが映画の中心テーマ。
主役の女性マリエは、ノルウエーの国立計量検定所に勤務している。 スキーのジャンプ台の長さや、ボールの反発や、ガソリンスタンドのガソリン量をはかって、ぴったり合っていれば「検査済」のシールを貼る。
重さをはかるには、キログラム原器という1キログラムの基準になるものがある。 パリに国際原器があり、各国の原器が正確か再計量する集まりが開催されるとき、マリエが持って行くことになった。 これまでは同じ仕事をする父が行っていたのだが、父が急死し、マリエが継いだ。
ノルウエーのオスロからフランスのパリまでは1,300キロほど、飛行機で2時間半。
東京からだと鹿児島より遠く、那覇より近い。
ノルウエーとフランスでは出入国手続きが必要としても、時差はないし、機内で食事をとることもなく、遙かに遠い異国という感じではないだろう。
それでも、森にいるようなノルウエーと、エッフェル塔や夕陽のセーヌ川など都会的なパリの風景とが、対照的に映しだされる。

父が亡くなる前、マリエが病院に見舞うと、すでに死を覚悟している父がこんなふうに語る。
父:今こそ人生をはかりに掛けるときだ
  最終的には重さを量る必要がある 面白いと思うぞ
  自分の質量が果たしてどのくらいか  死んだらわかる
マ:死んだら?
父:覚えてるか? 私を火葬にしてくれ
マ:分かってるわ
父:推定によると ヒトの魂の重さは21gだ
  だがな 私の知ってる連中の魂はそれほど重そうに見えない

マリエはキログラム原器を持ってパリまで往復する。
正確に1キログラムの金属は、円筒形のガラスケースに入っていて、さらにそれを携帯用に持ち手のついた容器におさめてある。
高さ30センチほど。
パリから帰って計量検定所にキログラム原器を戻してから、マリエは遺体処理施設に行き、父を火葬にした遺灰を受け取る。
遺灰は壺にいれ、さらに携帯用のケースにおさめてある。
大きさもスタイルもキログラム原器そっくりで、それを持って施設を歩いて出るマリエの後ろ姿も、キログラム原器を運んでいたときとそっくり。
ちょっと面白いだろ-とほくそえむ映画制作者の表情が思い浮かぶようだ。

そしてマリエは遺灰を計量検定所にもちこみ、こういう施設だからとうぜんキチッと正確に測定できる機器に、壺をあけて遺灰をのせる。
はじめデジタルの表示は「1022」グラム。
すぐに「1021」「1020」と1グラムずつ減っていき、「1001」グラムでとまる。
このとき父の魂が宙へ移動していったのだった。
その重さは父がいっていたとおりに21グラムだった。

マリエや父の職場は数字の世界だし、人柄も相応に理知的、セリフも明快で、映像も静謐でゆるぎない。
そんな理知的な映画なのに、遺灰の測定シーンでとつぜん超合理な幻想にとぶ。
それにしても、キログラム原器と灰壺を対応させながら、なぜ遺灰は「1000」グラムではなく「1001」グラムにしたのだろう。

映画は2014年につくられた。
その後フランスで開催された国際度量衡総会の決定により、2019年から国際キログラム原器を廃止し、誤差を生じることがない物理定数で1キログラムが定義されることになった。
映画のころ、すでに「はかる」ための基準を実体のあるモノに依拠するのは避けられつつあり、映画でもキログラム原器を持ち出すとき、
  「これが最後の原器だ メートル原器はもうない」
と言いながら、メートル原器が入っていたらしい細長いガラスケースを目で示す場面があった。
キログラム原器の再計量の前に「洗う派」と「洗わない派」が対立しているという話もでてくる。
当事者には深刻で重大なことに違いないが、ちょっとひいて眺めるとおかしくもある。
実体のあるモノに依存しなくなれば、そうした派閥争いも当然なくなったのだろう。

「移動」といえば、ふつうは距離だが、この映画ではオスロ-パリの1300キロほどより、魂が移動してわかった21グラムの重量のほうが重要なふう。
でもマリエはパリで知り合った男に恋をして、映画のラストはキログラム原器も遺灰も処理しおえたマリエが、あらためてパリにとんで楽しい時間を過ごすところで終わる。
まじめなフリをして、幻想や、さらっと愛やユーモアをちりばめて、楽しい映画だった。

* 『1001グラム ハカリしれない愛のこと』 原題 1001 Grams 2014
* 『魂の重さは何グラム? 科学を揺るがした7つの実験』 原題 Weighing The Soul:The Evolution of Scientific Beliefs レン・フィッシャー 林一訳 新潮文庫 2009