Ⅱ-20 『天空の城ラピュタ』空を飛ぶ少女の冒険2-「移動」と「河口」がつながること

ゆったり飛ぶ大きな飛行船を、すばしっこそうな小型機に乗った海賊が襲う。
その混乱のすきに、飛行船にとらわれていた少女が逃げだそうとするが、転落してしまう。
でも少女は飛行石のペンダントを首にかけていたので、地上にそっと着地し、鉱山で働く少年に助けられた。
少女シータは空に浮かんでいた伝説の城ラピュタの生き残り。
少年パズーの父は、かつてその城を目撃して写真に撮っていたのだが、ほら吹きな詐欺師扱いされたまま亡くなり、少年はいつかその城の存在を探しあてたいと思っていた。
少女をとらえていたのは、やはりラピュタに関わりがあった男。
海賊はラピュタにたくわえられていた財宝を狙っている。
そんなひとたちが絡み合って、空中で追っかけっこをする。

ジブリのアニメでは、空を飛ぶシーンが圧倒的に多い。
ラピュタでも、序盤、シータとバズーを海賊が追いかけるが、それはまだ地上でのこと。
それでも逃げる2人が乗るのは高い崖につけられた高架軌道を走る列車で、海賊たちは崖の上の道をオートモービルで追いかける。
ほとんど車輪が地についていなくて、空を高速で走っているような浮遊感がある。
地上にいるときでも、空を飛びたくてウズウズしているふう。

なぜジブリのアニメは空を飛びたがるのか、不思議に思い続けていたら、ようやく明快なビジョンで解明してくれる本に出会った。
  『スタジオジブリの想像力 地平線とは何か』 三浦雅士 講談社 2021。
アニメ論ということを越えて、人類の認識史とでもいえる壮大な書だった。
人間は眼の位置を少しでも上に持っていきたかった。
それで直立二足歩行を始めた。
さらに木に登り、梯子を発明し、塔を建てた。
馬に乗り、飛行機で飛んだ。
人類はなぜ直立したのかといえば、
  「答えはもちろん、大空を飛びたかった、飛行したかったからです。」
という。

直立二足歩行により眼を浮遊させると、「距離」が意識される。
そしてそのいちばん遠くに「地平線」がある。
人は地平線によって自分の位置を確定するが、それは自分を客観視する、対象化して見ることでもある。
遠近法で世界を把握することができるようになるということは、任意の点から世界を眺めることができる、人間は原理的に世界のどこへでも飛来することができるということになり、
  「つまり、遠近法がすごいのは、それが自由な飛翔を意味するからなのです。」

宮崎駿のアニメでは、主人公が、引っ越しと転校とか(『となりのトトロ』)、修行のための独り立ちとか(『魔女の宅急便』)、異世界に迷い込むとか(千と千尋の神隠し』、誘拐とか(『天空の城ラピュタ』)、なにかしらの移動から物語が始まる。
  「いつのまにか地平線が違っているというお話です。ここはどこだろう、自分はどこにいるのだろう。ここでは地平線への問いと自己への問いが自然にかさなっています。そして、歩くこと、走ること、飛ぶこと、あるいは自転車、列車、要するに移動することが、そのまま、世界の新しい解釈、自己の新しい解釈に繫がってゆくことが示されるのです。」
「宮崎駿にあっては、飛ぶことは必ず自由であることの表現、そしてそれは視点を変えて世界を眺め返すことと表裏で、ぜったいに切り離せない。」
「想像力とは飛翔のことであり、飛翔とは想像力のことなのです。」
(以下も含め引用文はすべて上掲書から)

冒険はたしかな地平線を見いだすためのものになる。
『天空の城ラピュタ』では、空にはいつも雲がかかっているが、ラスト、海賊たちに別れを告げる瞬間に、地平線が姿を現わす。
暮れようとする夕陽を受けた雲のあいだから広々とした地平線が見えてくる。
そしてまさに「あの地平線..」から始まるテーマ曲が流れる。

また同書では
  「地平線が重要なのは生と死のボーダー、幽明の境になっているからです。」
ともいう。
ボーダーであり、生と死の境の象徴ともいえることでは河口も同じ。
でも地平線、水平線には、決して行き着けない、そこに立つことはできないが、河口なら、ボーダーの地点に行って、そこに立つことができる。
『天空の城ラピュタ』のエンディングでは、テーマ曲にあわせてブロッコリーのような形のラピュタがどこかの天体を背景に浮いている。
海と陸があって、陸の中央部にある湖から川が流れ、海に流れこむ河口までがくっきり見えている。
河口のことと移動のことが、宮崎駿のアニメと三浦雅士の書によって結びついたことでもあった。