阿武隈川-ポツンと自販機

阿武隈川の河口
仙台駅から車で1時間ほどかかって阿武隈川の河口右岸に着いた。こまかい霧のような雨が降っている。河口の先端を見てみたいが、東日本大震災でこわれた堤防を工事中で、立入禁止区域が多い。
行ったりきたり、あちこち走ってみて、ようやく工事がひとまず済んでいる堤防にあがれた。。


阿武隈川は、那須連山につながる旭岳が源流で、須賀川市、郡山市、福島市と、福島県の中央部を北上し、宮城県にはいるあたりから東へ向かって、仙台市より南で太平洋に注ぐ。 (高村光太郎の詩『樹下の二人』(1923)にある「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」と妻智恵子がしめした阿武隈川は、中流域、郡山市と福島市のあいだになる。)
その河口部が、大震災より前にはどんな風景だったか、初めてきた者にははわからない。
旅から帰ってから手に入れた『津波被災前・後の記録 2011.3.11東日本大震災 宮城・岩手・福島航空写真集』には、東北太平洋岸の河口の震災前後の写真が掲載され、変化を見比べられる。
阿武隈川の河口では、右岸は半島状になっていて、被災前の写真では、中央に緑色に田があり、それを取り囲むように人家がある。人家は狭い区域なりに密集している。
被災後の4月に撮られた写真では、中央の田には作物はなくて、一面の土の色に写っている。周囲の人家は、海岸に近いあたりは全滅で、やや離れたところでもポツポツと残っているくらい。
今は堤防の工事のほか、内側でもまず土地を整備する工事が進められていて、ダンプカーやショベルカーが動いている。

阿武隈川の自販機
大震災の半年ほどあとに石巻に行ったとき、暑い時季なのに水を十分に用意しないまま歩き出してしまったら、のどが渇いて困ったことがある。店がないし、自販機もない。
2年経って、ここでは店はなくても道に自販機が置かれるくらいには回復していた。復旧工事の人たちには心強いだろう。

亘理町立荒浜小学校
河口の近くを走って、亘理町立荒浜小学校を通りかかった。このあたりには高台はなく高いビルもない。この学校が大勢の人を救った。
小学校では、地震が起きたとき、低学年の児童が帰りかけているところだった。呼び戻し、上の階に行かせ、すっかり水に囲まれたが、この校舎の屋上までは水がこなくて助かった。
被災後、ほかの小学校の一部をつかっていたが、僕が行った2013年には復旧工事がすんでもとの校地に戻っていた時期だった。
この日は土曜日で授業がなくて、校庭で少年たちがサッカーをしていた。 校舎の陰でおとうさんやおかあさんが見守っている。元気な子どもの姿を見ると、なんとなしほっとする。
校地のかどに「津波襲来の地」の碑が立っていた。
(2013.6)