姫川-ヒスイ探し

姫川河口
姫川河口左岸/須沢臨海公園:
姫川の左岸河口に須沢臨海公園があり、その駐車場に車を置いて海岸に出た。
ヒスイを拾う人が4人いた。
海まで入っていって、足先を水にひたらせて拾う、とても気合いが入った若い男性1人。
帽子をかぶり、長靴をはいた装備万全の、やはり見つけ意欲満々の女性1人。
あと観光ふう若いペア2人は、いくらか気楽ふう。
僕はとくに装備がなく、河口に向かって歩きながら3個ゲットした。 ホンモノの可能性はとても小さいが、もしかするとと思うだけで楽しかった。

写真では、左が海で、河口中央に向かって砂州がこちらから右岸方向に長くのびていて、川は砂州の向こうを右から左に流れている。
河口は400メートルほどの幅があり、とても広いのだが、水が流れるところは細く、河口先端では砂州でますます狭められている
それで水は力に充ちてふくらみながら海に向かっている。

姫川 左岸
左岸の先:
左岸から先、西の眺め。
日光がキラキラして、潮騒の音が繰り返している。
左のやや高い山は黒姫山か。

姫川 右岸
右岸方向の眺め。
写真の左が海、右奥が上流で、いちばん河口近くに架かる姫川橋がわずかに見えている。
右岸には港があり、人口の構造物がいくつも並んでいる。
右手前方向の水は、左岸から砂州が伸びている、その砂州と陸地との間の水溜まり。

古事記などに、高志国を治めていた豪族の娘、奴奈川姫(ぬなかわひめ)に、出雲から大国主命が来て求婚したとあり、この奴奈川姫が姫川の名の由来とされる。

また姫川流域は地すべり地帯で、土砂災害が多い。
よく氾濫を繰り返す川として厭われたことが糸魚川(厭い川)の名の由来だという説がある。
「姫川」というきれいな名と、「厭い川」というネガティブな名が重なっていることが珍しい。

姫川 右岸の石ころの地層
砂州の先端から、車を置いた公園に引き返す。
歩きだすと、左岸の端にある青海浄化センターが、やや高い位置に見えて、その下の地層の断面が見えている。
砂州は、砂州とはいいながら数センチの石ころが堆積している。
新潟の河口を見ながら、北から下ってきた。 どこからだったか、南のほうではこんな礫を見かけるようになった。 北方ではなかった眺めで、山地から短い距離を急流で下ってくるからかと思った。

糸魚川駅
糸魚川駅:
姫川から2.5キロほど東に糸魚川駅があり、その周囲が糸魚川市の中心市街地になる。
駅からは、まっすぐ北へ400メートル行くと、日本海にぶつかる。
海岸線に沿って国道8号があり、日本海ひすいラインも海岸に並行している。
その2本の並行する幹線の間に数本の細い通りがあり、古くからの街道の街並になる。
独特の構成の街という印象を受ける。

糸魚川市駅北広場キターレ
糸魚川市駅北広場キターレ:
糸魚川駅の旧街道地区で、2016年冬に大きな火災があった。 古い街道の通りを歩いているうち、新しい建物が並ぶところがあって、それは大火の跡なのだろう。
そんな中に「糸魚川市駅北広場キターレ」があった。
大火とそこからの復興の様子の展示や、イベント場がある。
大火からの回復のシンボルの施設で、2020年にオープンしている。
シェアキッチンといって、月単位で営業者が変わるレストランがあり、そこでランチにした。
写真の右手前にあるのは、雁木通りという、雪よけの屋根つき歩道を今ふうのデザインで復元している。
糸魚川駅では、改札口にの上に「がんばろう!糸魚川」という大きな横断膜がかかっていた。 まだ大火からの回復途上ということなのだろう。

谷村美術館
谷村美術館:
糸魚川駅から線路を南に越えて、美術館に寄った。
かつて2000年に一度来たことがある。 とても印象深い美術館で、もう一度来てみたかった。 僕が住む関東平野からは遠く不便で、次の機会があるとは思えなかった。

建築家、村野藤吾(むらのとうご 1891-1984)最晩年の設計作品。
1983年築の建築物とは思えない、異国ふう、異次元ふうの外見をしている。
澤田政廣(さわだ せいこう 1894-1988)の木彫仏像が展示されているが、内部もまた独特で、四角い壁が連続していくふつうの美術館のようではなく、不定型な曲線による洞くつのよう。
そこに自然の光と人工照明が組み合わされて、まぼろしの世界を歩いているようだった。
また来られてよかった。
*糸魚川市京ケ峰2-1-13 025-552-9277

(2022.7)