利根川-上流からあこがれていた河口に

利根川河口
銚子駅から北に直進して利根川に突きあたるところに河岸公園があり、銚子市街に入ってまずそこに行ってみた。
河口までわずか2キロちょっとの近さなのだが、流れが最先端部でくいっと向きをかえているので、この公園から河口は見通せなかった。

銚子大橋
河岸公園からすぐ上流に銚子大橋が架かっている。

千人塚
川岸公園から利根川右岸を河口に向かうと小高い突起に千人塚がある。
もともと利根川の河口は干潮時と満潮時の潮の流れが急なため、船の航行には危険なところだった。
1614年にその沖合で突風が起き、出漁中の漁船が難破して千人以上が亡くなり、その遺体を埋葬したのが千人塚。
今は複雑につくられた防波堤が水流をコントロールしていて、銚子港は年間水揚量が全国第1位になっている。

千人塚に上がると、防波堤の間に河口が開いているのが見えた。
写真、中央よりやや右にあるのが、右岸に沿ってながく伸びている防波堤の先端にある灯台(銚子港一ノ島灯台)。
水平線の左際に短く見えているのが左岸の防波堤の先端。
左岸では風力発電の羽根が回っている。
満潮の時間で、白い波が上流に向かっていた。

日の出
今夜の宿は、利根川の河口から少し離れて、東海岸にあるぎょうけい館。
1912年の夏、この宿に滞在していた高村光太郎は犬吠埼で長沼智恵子に出会う。 ほかの宿に泊まっていた智恵子をぎょうけい館に連れてきて過ごし、名詩集「智恵子抄」が生まれた-という由緒ある旅館。

犬吠埼は本州最東端にあり、「いちばん早く日の出が見られる」と宣伝されている。(島まで含めた最東端は南鳥島)
泊まった翌朝、水平線あたりの低い位置に雲がかかっていたが、日の出ころにその方向の雲だけ薄くなって、かろうじて薄赤く丸い朝日が見えた。

ぎょうけい館の朝食
ぎょうけい館での夕べの食事は、海辺の宿にふさわしく海の幸があれこれ。
といっても、豪華、贅沢、珍奇というようなのではなく、
 火の台 秋刀魚陶板焼き
 煮物  鯖味噌煮
 止め椀 鰯つみれ のげ海苔
など、なじみの大衆魚が並んでいた。
あわびや伊勢えびも追加できるが、高額な別料金。
「大衆魚の四天王」という言い方があるみたいで、サンマ、サバ、イワシがでていて、妻が「これであしたの朝食にアジなら四天王がそろう」と言ってたのだが、そのとおりにアジの開きが朝の主役ででた。
夕べ、ほかの料理も(刺身はさすがに素直に刺身だったが)、見るからに天ぷらとか、見るからにデザートとかいう先入観をくつがえすような姿をした料理が次々にあった。
大衆魚の勢揃いというのは-出張者向けの低廉料金の簡素な夕食ならともかく-ちょっとした宿泊料の老舗の宿としては大胆なものだし、冒険的な料理が愉快だった。

犬吠埼灯台
ぎょうけい館は、海に面している。
朝の散歩にロビーから海岸に出ると、左の崖の上に犬吠埼灯台が見える。 海岸の岩場に遊歩道がつくられていて、潮風を受けながら灯台に向かった。

灯台に近づいて階段を崖上に上がると、広い平坦地になっていた。 犬吠テラステラスという商業施設があるが、まだ開店前。
その先に白い灯台がローソクのようにすっと立っている。 こちらはもう公開時間になっている。高いところから風景を眺めるのは好きだが、このあと銚子ポートタワーに上がるつもりなので、ここでは灯台を見上げるだけにした。

ホテルを車で出て南に向かい、外川港近くに駐車して、銚子電鉄の外川駅に歩いた。 レトロな駅だし、子どもが小さいころに来たことがあるということでも、とても懐かしい。

大杉神社
また港に戻るときに回り道して、大杉神社に寄った。
短い参道の両側に独特な風貌の木々が並んでいる。

海岸から内陸に向かうと、大杉神社あたりから土地が高くなっていくが、このあたりはかつて日和山だった。
港の近くに高地があると、潮の流れ、雲の具合や風の向き、船の出入りなどを見守るための日和山とされた。
江戸時代初期の1659年、ここにあった渡海神社がやや北に移された。
ちょうど同じ頃に、外川に漁港がつくれらている。
高台を日和山として機能させるために渡海神社を移したのだろうか?
ただ、それにしてはその後に大杉神社が設けられているのはどういうことか?
このあたりのいきさつはわからない。 (市史でも開けばわかるかもしれない。)

「銚子漁業発祥地外川港」碑
高台の端にあたるところに石碑が立っている。
「銚子漁業発祥地外川港 開祖 崎山治郎右衛門碑」とある。
銚子港は、ここから始まったのだった。
海岸から坂を上がると広い平坦地があり、そこまでイワシを運び上げ、肥料に加工した。 江戸期には農作に欠かせないもので、大きな利益をえられた。
その富を生かして、銚子半島の北側、利根川の河口に新たな港が整備され、利根川で江戸につながる安定した水運が確立し、銚子港が繁栄することとなった。
今、北の銚子港に比べて南の外川港は小さくひかえめだが、漁港としての銚子の発展はこちら側から始まったのだった。

銚子ポートタワー
銚子の半島部の南東端から北東端にあがり、銚子ポートタワーに上がった。
利根川の河口を見おろせが、港はコンクリートだし、防波堤が複雑に囲み、もともとの河口がどこまでで、どんな景色だったのか、想像できない。

洋食ル・クール
市街地にあるル・クールという洋食店で昼を食べた。
銚子にきたら海鮮が正統派な気がするが、妻は「こういうところだから洋食がいいかも!」という。
それで妻がネットから見つくろった店に入る。
インテリアがとてもいい感じで落ち着ける。
みごとな海老フライだった。
銚子なのに洋食屋-とはいえ、しっかりした海の幸を楽しんだ。

銚子大橋
利根川の右岸から左岸に銚子大橋を渡る。

利根川の河口、左岸
右岸は千葉県銚子市だったが、左岸は茨城県神栖市。
茨城側も波崎新港という港ではあるけれど、銚子が港関連施設やら商業施設やら住宅やらで密だったのに比べ、ぼーっとした空間が広い。
コンクリートの護岸に、数本の風力発電柱が立ち、倉庫らしき建物がポツンとある。
岸辺ではポツリポツリと釣りをする人がいる。
右岸との間にはかなり大きな砂州があり、河口は見えない。
砂州ごしに、さっき行ってきた銚子ポートタワーの上部が見える。

利根川河口堰を走る
そのまま利根川の左岸を、ほぼ川に沿って上流に走った。
河口から18キロほどのところで右岸に戻った。
このあたりで、並行してきた常陸利根川、利根川、黒部川が合流している。
3つの川それぞれに堰があり、その上部が道路になっている。
道路は一直線に両岸を結んでいるのだが、
 ・常陸川には常陸川水門+常陸川大橋
 ・利根川には利根川河口堰+利根川大橋
 ・黒部川には黒部川水門+黒部川大橋
と、それぞれ別な構造物が設けられ、別な名前がある。

利根川河口堰管理所
黒部川大橋を越えたところに利根川河口堰管理所がある。
説明資料や映像設備をそなえた案内所があって公開されている。 中に入ると「ダムカード(の受け取り)ですか?」と、所員の方に笑顔で声をかけられた。 格別そのつもりで来たのではないが、喜んでいただく。

案内パンフレットに「利根川河口堰の管理~地域を守る潮止堰 利根川河口堰~」とあるように、洪水の防止や都市用水の確保ということより先に、「潮を止める」ということが第一の機能としてあるのだった。
ここに来る前に、利根川の河口で、海から川の上流に白い波が繰り返し向かっているのを見たが、河口から18キロも遡ったこんな上流にまで届いているのに驚いた。
この堰ができる前には、海水が河口から最大50キロまで逆流したことがあるという。50キロといったら、香取市を越えて神崎町になる。
上流の農地への塩害を防ぐために堰が計画されたわけだ。
ただ自然の勢いとして海水がさかのぼっているのを人工的に止めているのだから、反自然ではある。
河口堰というのは+と-の両面あって、難しい。

所員の方にうかがうと、東日本大震災のとき、津波は堰を越えたという。
それでも利根川は河口直近で曲がっているので、上流に向かう勢いがいくらか弱まった。(その分、海から直方向には被害が大きかったことになる。)

利根川河口堰、遠景
利根川河口堰管理所から、さっき渡ってきた堰方向の眺め。
見えている堰は利根川河口堰(利根川大橋)。
手前の流れは黒部川。


帰り道、下総国一之宮香取神宮に寄った。
左岸には鹿島神宮がある。
利根川の河口付近の両岸に大きな神宮をつくり、当時、非中央であった北へのそなえとした。
今、利根川の河口あたりは、中心から大きく東にはずれている一帯という印象があるが、かつては人と物の流れ全般にわたる重要地だった。

僕が住む家は埼玉県北部にあって、荒川が近いが、そのあたりは荒川と利根川がいちばん近づくところでもある。
家に向かうと、利根川をさかのぼることになる。
とくに銚子市、香取市、神崎町あたりまでは利根川にほとんど沿って走る。
河口めぐりをしていても、川の流れ全体を見とおそうとしたら際限がないから、河口近くに限定して見て歩いている。
今回は、川が家と河口を結んでいるようなものだから、長く川に沿って走ることになり、親密の度合いが深い。
利根川には、ふだんからなじみ、関心のある場所がいくつもある。
その河口がずっと気になりながら、ずっと機を逃してきたのが、ようやく行けて、いい旅になった。

(2021.10)