安倍川-崩壊地から来る川

安倍川河口
安倍川の左岸河口からの眺め。
足もとの砂浜が向こうの左の砂州に続き、右岸からも砂州がのびていて、川は狭められて海に向かっている。
沖から白い波が寄せていて、サーファーがいた。
穏やかないい日なのに釣り人はいない。釣りは禁止されているらしい。

安倍川の河口 上流方向
安倍川の左岸河口から上流方向の眺め。
国道160号に架かる南安倍川橋が見える。
左岸では、河口の角地形の先端部分に、サッカー場、静岡市中島浄化センターという衛生関係の施設、中学校など、公共施設がいくつかある。 中島展望広場というのもあって、そこに車をおいた。 それらの内側は住宅地だった。
右岸でも、住宅の先に衛生施設や工場や病院があるようだ。

安倍川の河口 鹿
左岸で、大きなカメラと三脚をもって野鳥を撮っているらしいカメラマンを数人見かけた。
左岸を歩いているうち、ふと気がつくと鹿がいて、その人たちもカメラを鹿のほうに向けている。
鹿は散歩気分ふうに、ゆっくり水辺を歩いている。
砂州に細い流れが入りこんでいるところを、ゆったりと渡って、向こうの草地に移っていった。
ネットで検索すると、2020年10月に、すぐ近くの大谷川(おおやがわ)放水路に鹿が入りこんだので捕獲したというテレビニュースがあった。 たまにこんなことがあるらしい。 上流の山地にはふつうに生息していて、鹿刺しを食べさせる店もあるようだ。

安倍川の河口 富士を遠望
すぐ近くにある浄化センターから流れてくる水路でもあるのか、水門があって、その向こうに淡く富士山が見えた。
このときの1泊2日の旅では、いい天気で太平洋岸を移動していたのに、富士山がきっぱりとは姿を現わさなかった。

広野海岸公園の難破船
右岸に渡った。
河口から少し西へ離れたところに広野海岸公園がある。
難破船の遊具がおもしろかった。
真っ二つに折れているので、きつく斜めに傾いた船体に、ハシゴや網がかかり、こども向けのアスレチックになっている。 平日だが、小さな子を連れた家族が幾組か遊んでいた。
南方にあるような葉が日と風を受けている。
それに波音。
あたたかな海辺の至福。

この公園に着く前に、間違えて1本内陸側の道に入ってしまった。
西から東に流れてすぐ先で安倍川に合流していく丸子川と、海岸とに挟まれた土地が、狭い幅に区切られて畑になっている。
そのほとんど畑ごとに、手こぎで汲みあげる小さな井戸がある。
畑の脇の道を車で走っていると、次々に井戸があって、珍しいものを見ている気がした。
あとでグーグル・アースで見ると、東西1キロほどにもわたって、南北に長く細い短冊状に畑が並んでいる。
古い街道沿いの街で、間口が狭く奥行きが長い町屋が並んでいるのと、形態はそっくり。
こんなふうに畑が並ぶには何かしらユニークな歴史がありそう。
安倍川の伏流水は静岡市の水道水にも使われているほどに豊かということだから、井戸がいくつもあるのはどこかの水源からパイプで水をひいてくるより、掘ってしまうほうが早い-ということかもしれない。

     ◇     ◇
安倍川の水源の安倍峠には、大谷崩れ(おおやくずれ)という大規模な崩壊斜面がある。
作家、幸田文は、72歳のとき、楓の新緑が美しいと案内されて安倍峠に行った。 気持ちがのびのびやさしくなるのだが、あわせて導かれて行った大谷崩れを見て、大きな衝撃を受け、それから全国の崩壊地を訪ねあるく機縁となった。
ただ思うのは、心の中には知る知らぬを問わず、ものの種が宝蔵されているのではないか、ということである。  今度のこの崩れにしろ、荒れ川にしろ、また種が吹いたな、という思いしきりである。あの山肌からきた愁いと淋しさは、忘れようとして忘れられず、あの石の河原に細く流れる流水のかなしさは、思い捨てようとして捨てきれず、しかもその日の帰宅途上ではすでに、山の崩れをいとおしくさえ思いはじめていたのだから、地表を割って芽は現われたとしか思えないのである。(『崩れ』幸田文)
崩壊地を見に行く記録は、「婦人の友」に1976年から1977年にかけて14回連載され、没後、娘の青木玉が整理して1991年に『崩れ』として出版された。
僕にはこの本は大切な本で、僕の河口めぐりにも幸田文が崩壊地をめぐった気分が反映しているように思うことがある。
大谷嶺は、標高1999.7mから全長53kmのとてもきつい勾配で駿河湾に流れ下る。
安倍川の河口はその終点なのだと、思い思い河原を歩いた。
*『崩れ』幸田文 講談社文庫 1994
『ふるさと隅田川』幸田文 ちくま文庫 2001 (「崩壊雑談」を所収)
『動くとき、動くもの』青木奈緒 講談社 2002

(2022.11)