13 『街道をゆく』『人びとの跫音』-司馬遼太郎・須田剋太と正岡子規

□ 『街道をゆく』の挿絵が描かれた地を追う

司馬遼太郎の『街道をゆく』の挿絵を描いた画家・須田剋太(すだこくた 1906-1990)は埼玉県吹上町(現・鴻巣市)の出身で、その生家は僕の住まいから近い。
須田剋太が『街道をゆく』の旅をしたのは1970年から1989年までほぼ20年だったが、2010年から2019年の10年間ほど、僕はその挿絵の地をたどった。
司馬遼太郎と須田剋太の旅のあと、20年から50年ほども経っていた。
司馬遼太郎の文章からすると、道が今ほど舗装されていなかったり、高速自動車道がまだなかったりして、移動の手間はほとんどタクシーの運転手まかせにしても、長い時間しんぼうして行く苦労は小さくなかったろう。時を経て道路状況はずいぶんよくなっていた。 司馬一行は細い峠道を時間をかけて越えたのに、するっとトンネルで抜けてしまうようなこともあった。
また歴史的存在だが現状がどんなかは知られていなくて、司馬遼太郎でさえ今もあるのかどうかわからないと不安になりながらたずねあてたところがいくつかあるが、今ではインターネットで調べれば現状をほぼわかってしまえる。
ストリートビューやグーグルアースで事前に場所の見当をつけ、慣れない地方でもネットの乗換案内で効率的なルートを選んで、鉄道や飛行機の席もネットで確保する。 現地に着いたらレンタカーを借りてカーナビにその場所をセットすれば、ほぼ目的地に行き着ける。紙の地図と時刻表をたよりにしていたら目的地に到るまでにずっと手間と時間がかかったろうし、行き着けなかったろうと思えるところがいくつもあった。
年月が経過して、移動は簡便になり、時間は短縮し、より目的地へ到達する確度が高まった。
ただ事前にあまり精密に調べすぎると、電子的に調べたものを現地に確認に行くだけのようになり、行ってみての発見の喜びが減ってしまう。 同じところに訪ねなおすのは簡単ではないから、現地で行き着けなくては惜しい。 なかなかかねあいが難しかったが、おおむね現地に着けたし、現地で意外なこと、思いがけない偶然に驚くようなこともあって、楽しい旅をした。→[須田剋太の旅]

北上川河口、東日本大震災のあと
『街道をゆく』「26仙台・石巻」の旧北上川河口。
挿絵の地をめぐりはじめたころに東日本大震災が起き、東北地方の旅はその被害の跡を見てあるくことにもなった。岩手から茨城まで、太平洋岸の被災地をほぼたどり、しばしば胸が塞がるおもいがした。
この河口にはこれ以前にも行ったことがあり、震災の前後を比較できるだけ、いたましい思いが増した。


□ 司馬遼太郎と正岡子規の究極の移動

人の生には最後に一度だけの究極の移動がある。
人生の途中の移動では(結果として行ったきりのことがあるにしても)可能性としては戻ることがありうる。
でも最後の移動は行ってしまったらそれきり。
「九死に一生を得る」とか「臨死体験」とかいうのがあるが、本当に行ってしまったらもう戻らない。
司馬遼太郎はこの移動について独特の構えがあったらしい。

かつて夫人の福田みどりさんはいっていた。
「本当に嫌なところがあってね、私と出会ったころにもう、『僕は早死にする』といってたものね」
 ひどかったのは50歳ぐらいのころだったそうだ。
「何かもめ事があると、遠い目になるの。『もうすぐ僕はこの景色は見られなくなる』とかいい始める」
(『司馬さんの死生観 「壱岐・対馬の道」』 『司馬遼太郎と宗教』所収 週刊朝日MOOK 2017)


死を恐れる人もあれば、死がこの世のメンドウを終わらせてくれると救いに感じる人もある。僕はこのことで司馬遼太郎に親近感を感じている。
司馬遼太郎は四国・松山出身の秋山好古・真之という軍人兄弟と、俳人の正岡子規をめぐって『坂の上の雲』を書いた。
正岡子規についてはもう1編『人びとの跫音』を書いている。
正岡子規の妹・律の養子で、阪急電鉄の車掌、阪急百貨店の職員であった正岡忠三郎を主に、交友があった人々を描く。
そこで正岡子規が病の激痛とたたかいながら最後の句作にはげんだことにふれている。
間近に死が迫るのを切実に意識しながら、子規は死そのものを思索や創作の課題とすることはなかった。

死生の問題は大問題ではあるが、それは極単純な事であるので、一旦あきらめて仕舞へば直に解決されて仕舞ふ。
(子規は)淡泊にそうのべているだけである。
(『人びとの跫音』 司馬遼太郎 中央公論社 1981。正岡子規の原文は『病牀六尺』1902。)


死生観はいろいろあるが、正岡子規のは最明快で、司馬遼太郎も(100%かどうかわからないが)共感する思いがあったろう。

松山市 子規堂
『街道をゆく』「14南伊予・西土佐の道」をたどって、四国の松山に行った。
正宗寺の境内に子規堂があった。
正岡子規が17歳まで過ごした邸宅を模して建てられた 木造平家で、たよりなげな古い家らしく復元し、子規が使っていた机や遺墨、遺品、写真など展示している。
背後に見えるのは高島屋と屋上の観覧車。