志多留川-夢の集落(対馬2)

志多留川の河口
国道382号線は、南北に細長い対馬を縦貫する基幹道路で、その道を北端から南に向かって走ったとき、西にそれて志多留(したる)の集落に向かった。
山がちの対馬には珍しく、国道からそれてからの道はほぼ平坦なのだが、両側に背丈ほどの緑の植物が続いている。木でもなく、耕作物でもなく、不思議な印象を感じながら走った。
そこを走り抜けると、風景がひらけて志多留川の河口にでた。 ほそい流れが静かに海に向かっている。

志多留に向かったのは「郷士屋敷」というものを見たいと思ってだった。 司馬遼太郎『街道をゆく』の「壱岐・対馬の道」に、対馬の郷士屋敷についてこういう記述がある。
「 村々も、他府県にありふれた水田農村の集落のかたちをとっている。ただよく見た上でのことだが、どの小集落にも集落の二つの口をおさえこむようにして、門構え・玄関付きの屋敷がある。対馬郷士が他藩のそれと異り、農村における藩機関として監視の役目をもっていたということであろう。」

志多留川の河口近くの屋敷
河口の左岸を歩いていて、わずかにさかのぼったところに小さな橋が架かっていて、右岸に越えた先にそれらしい構えの家があった。
司馬の文章にあるとおりに、その奥にひかえる数軒の集落の角の要地をおさえるふうに位置している。
(この写真のすぐ右を川が流れている。)

志多留川の河口近くの屋敷 垣の角の石
その石垣の角に奇妙な形の石がのっている。 なにか象徴する意味でもあるのだろうか。

志多留川の河口近くの屋敷 垣の植物
その石垣の途中から植物がはえている。 石垣や舗石のすきまから草がはえているのはよく見かけるが、これほど重そうに盛大に繁茂しているのは 、植物に詳しくない-ほかのこともだが-僕には珍しいものに思える。

志多留川の河口 集落
左岸に戻って、こちら側にもある小集落を歩く。
がっちり分厚い石垣に囲われた内側に家がある。
こんなみごとな道と家があるとは予想していなかった。
夢の中で架空の街を歩いているような気さえする。
現実的、観光的なことをいえば、沖縄の竹富島のように集落ごと保存して、ときに休む店があったりしてもいいくらいだ。

志多留川の河口 集落の小屋
小屋がいくつも並んでいるところがある。 母屋が火事にあっても大事なものを守れるように明治期から作られたものという。

前日、対馬の北端の展望所で韓国・プサンを遠望した。 そのとき対馬市役所の人とたまたま出会い、郷士屋敷なら志多留にもあると教えられ、僕のはじめの予定にはなかった志多留に来てみたのだった。
あとで調べてみると、2000年前、対馬に大陸から稲作が伝わったのが志多留といわれているという。たしかに山がちの対馬にしては平坦な土地が広くある。
水も豊富で、「志多留」は「したたる」からきているという説もある。
でも今は高齢化により耕作放棄地が広がっているという。 国道からそれてきた道で、いわば未開の平坦地のような印象を受けたのだが、かつて一面の田畑だったところが野生にかえりつつあるようなのだった。 前の日には、佐護川に向かう途中で、対馬には珍しい直線道路を、その両側にある田を眺めながら走ったが、志多留もそんな時期があったのだろう。
5月半ば金曜日の朝8時半ころ、しっとり落ち着いた家並みをしばらく歩いてまわっていても、ひとりも人を見かけなかったし、生活的物音も聞こえなかった。
ただひっそりしているとはいえ、荒れた感じはなく、清潔で気持ちのいいところだった。600人ほどいたこともあるのに、今は60人ほどとか。 数少なくなったとはいえ、いとおしむように暮らしておられるのだろうと想像して、離れたところに帰ってきてから、あらためてせつないような想いで河口と家並みを思い出した。
→[佐護川-山険しい対馬に平野があり(対馬1)]
→[壱岐の博物館と対馬のレストラン]

(2016.5)